グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

恋が言葉を殺すなら

誰かに強く惹かれてしまうということは

誰かによって、他人によって、

自分の存在そのものが安らかでいられる可能性を見出すことだ。

 

 

私の常の日々は、絶えず揺るがされる自分の存在そのものへの安心を、内向きに折り合いの付けてやってのけるうちにすぎていく。

孤独のうちに頼りない手を、整然として美しく並ぶ言葉のうちに突っ込んで

寄る辺ない生への期待や感傷を手探りしたり。

己の内内に湧き出るものを辿々しくも言葉にして綴ることで、

自分という人間の輪郭を描き確かめ保ったり。

 

でも、恋が、

人間どうしの愛により、

わたしという人間をここに居させてくれるという幻想を見せるなら。

 

私の生活に必要な言葉は、

他人を優しく労わり愛するためのものばかりになるだろう。

もう、探さなくてよくなるはずなのだから、

自分がほかの誰でもなく自分として透明にならずにいられる方法を。

もう、慰めてもらわなくてもよくなるはずなのだから、

あらゆる人間たちや万物事象の誰とも何とも通じ合えずに、

己が滑り落ちていく虚しさを。

 

昨夜の寒さはいくばくかマシだった。

君との小さな飴玉を転がすみたいなやり取りに、僕は少し言葉を忘れたくなってしまった。

男女共生の労働環境はまだまだ過渡期なのだと思う

家庭を作れるか作れないかという観点から、人間ひとりひとりの生産性について問われわれたり

大学入試の現場における男女の評価の差について議論が巻き起こったり

男と女が平等にやっていく方法についてはまだまだ手探りの部分が多い。

 

かくいう私は業種柄、男性の割合が圧倒的に多い職場に勤めている。

ここで働く男たちは、常に数の面において男がマジョリティである世界でしか生きていないから、男をマジョリティとしたやり方ばかりに長けてしまい、女の扱いには実は不得手な人間が多いのだとも思う。

しかし、それを旧式の価値観だとか男性優位だからあかんとかと責めるのはまた違うわけで、そういうやり方でやっていけていたものが、そうではない時代が到来してしまっただけで、みんな困っているとかしか言いようがない。

男の人だって当然女の扱い方に困るだろうけれども、女だって、男ばかりの職場でどう振る舞えば仕事がうまくいくかについては試行錯誤なのだ、困っているのはきっとお互い様だ。

 

ただ、困っていることを「だから男は」「だから女は」と性差の問題に回収してしまうのではなく、「どうすれば一番男と女が一緒に働く職場が快適なのだろうか」と意識して考えていかなければ、この困惑からは出られないのだろう。

 

女の私としては、ロールモデルがたくさん欲しいなと思う。男と女がうまくやっていくスタイルの、いろんな事例を見てみたいなと思う。

じゃあ、自分のスタイルは如何なのか?私はこの春から、地方の小さな事務所に転勤になり、そこで係長職まで拝命してしまった。正規の女性は私ひとり、他の女性は皆非常勤で、他はみんな男だ。

係長といっても係のメインの仕事は私と補佐の非常勤さんだけで、全体の総括として上司はいるけれど、細々とした実務的な部分については私がきちんと考えて、周りと話ができなければならない。男だろうが女だろうが関係なく、これはこうしたほうがいい、これはこんな問題がありできない、これはこうしてはどうか、ということをきちんと

出す。判断に困れば、ここは如何なのか、こんなのことがあったのだがと意見を求める。そうやって、物事を前に進めるプレイヤーとして認められなければならない。

そして幸いにして、私は周りのメンバーに恵まれたとしか言いようがないのだが、きちんとチームの一人として認めていただいて、仕事ができている。これは本当に嬉しいことだが、嬉しいのは「女なのに認められた」ではなく、「一人の人間として、チームの一員になれた」という事実でありたい。そう居られる道があるのだから、腐らなくても卑屈にならなくても一生懸命頑張れば大丈夫だよ、と後輩の女性たちに言えるようになりたい。

そもそも、今年31歳になる私の世代は、リーマンショック東日本大震災による不景気なムードにより、採用人員の削減に遭った世代である。それゆえ、私たちの世代は組織の中で層として絶対数が少なく、役職付きに昇進させる条件に、男だ女だだのは言ってられないのである。経験年数や年齢を考慮して、もうそのポストの仕事を与えられるのはひとまずお前しかおらん、みたいな状況で、男と女の能力差の話ではもはやない。お前が男だろうが女だろうが、お前しかおらへんねん、という状況なのだ。

この状況は自分にとってはメリットだったとも思う。とはいえ、手放しでメリットとはいえない、そこまでの状況がなければ女が認められる場は与えられなかったのだろうか?という疑問が残るからだ。しかし、そんな状況が当然になってしまうように自分の所属している組織が舵を切ってしまっているなら、もう乗るしかない。そして乗ったからにはなるべく、楽しいから大丈夫だよ!と周りに言えるようになりたいし、周りがそういう体制の中で安心して働ける心持ちで向き合えるような一助でありたいと思う。

 

 

なーんて、グダグダと。居酒屋のカウンターでちょっといい気分になってきて熱燗でも頼み始めた位の頃合いの熱意を込めた話をしてしまった。はて、男だらけの職場にいる私、実際のところ如何なのか。

仕事については恵まれているのだと先述したが、果たして小さなオフィスに定時のチャイムが鳴った後、懇親会という名のいわゆる関係各位との「飲み会」が我々の職場はそこそこ頻度がある。チャイムが鳴った後の事情であるこちらには非常勤さんを拘束することはできず、いつも紅一点で酒場に向かう。私は酒量は男に負けていないと言われる、単に炭酸があまり飲めないという理由でビールは少量、あとは梅酒のストレートや日本酒やワインをだいたい2〜3合嗜む程度なのだが、周囲からは酒飲み扱いされている。

仕事のことでちょっとため息をつけば「酒が足りないのか?」の他の課の上司から声をかけてもらい

そこで熱燗を頼めば、先輩たちが「姐さん手酌はダメっす!!」「姐さんに酒を!!」とずっと後輩の私にお酌をしてくれる

 

仕事の懇親会だけでない、社宅で職場の数名と休日に鍋をした時だって、

買い出しに行った先輩と同期が、缶ビールだらけのスーパーの袋からすっと一本「姐さんにだけ特別に綺麗な酒買ってきました!」とスパークリングワインを差し出す

 

…酒飲み女が男だらけの職場に来た結果

酒に関してはレディーファーストが働くようになってしまった

 

男と女が均等に、全くの平等に働くのは難しいと思う。

アルコールレディーファーストで迎えられている私は逆セクハラをしているのか?とも思う。

しかし、一度たりとも私は男たちに強要はしていない、私が酒を頼めば彼らが自主的にお酌をしてくれたり、鍋の酒はあるもの飲むからなんでもいいよと言っても別途ワインを用意してくれたりする。むしろお願いだから強要だとか、私が怖いからそうしているだとかは思われたくない。そこに「姐さん」と呼んで酒を注げば楽しい人間がいて、お互いにそれが楽しいのだと思ってやって欲しい。まあ、私はとても気分がいいけどな!

 

 

もちろん、私のような扱われ方が正解ではないと思うけれども、でも男と女がいる中で、どちらの性も不愉快にならない楽しみかたが見つかればいいんじゃないかと思う。

みんなが快適な職場を目指すとなると、「みんな」を構成する種類が増えれば増える保ほど、みんなの同質性が薄まって差異のレベルが多彩になればなるほど、「みんな」の快適の道を探すのは難しいのだろう。しかし少なくとも、特に働く人々の世界にとって「みんな」とはかつて男ばかりで構成されていたものであったところが、今は「みんな」の中に男+女が入り混じるようになった時代であることは確かだ。そこはもう致し方ないものとして、個々人が「みんな」像をアップデートしていくしかないのだろう。自分の周囲にいる「みんな」が色々と自分と違う人だらけだという事実かつ、自分が様々の「みんな」の中でどうあるべきか、様々の「みんな」をどう受容していくのが良いかということを。

作品との出会いそのものの幸福について

遥か昔、私が大学生だった頃、とある有名出版社の面接だった。
あれは一体なんの質問であっただろう。
本の何に価値があるかだっけな、それとも何故出版の仕事がしたいのかだっけな、
質問は覚えていないけれど、自分の答えたことはうっすら覚えている。
 
私は四国の田舎で育った。
田舎にも文化を届けてくれるのは、
都会にあるけれども田舎にはきてくれない素晴らしいものを届けてくれるのは、本なのです。だから、と。
 
それから10年近い時間が経とうとしている。
当時は所謂意識の高い人たちや物好きが持つアイテムだったスマートフォンは、
もはや全国民的なアイテムとなった。
インターネットを経由した文化の流通経路はますます発達して、あの頃ほど「本」に拘る情熱を保つことは難しくなっている。
 
けれども、きっと変わらないと信じたいのは、手段が電子か紙かは問わず、誰かの作った素晴らしい作品が、この手に入る喜びである。
本屋で平積みになった文庫をひとつひとつ手に取りながらあらすじを確かめて、これをゆっくり読むために連れて帰りたい!と思える一冊に出会えた時の嬉しさ。
好きな作家や音楽家の新作発表の知らせを受け取り、発売日をワクワクと待っている嬉しさ。
欲しいのはまず第一に作品であるのは当然なのだが、そこで付随的に私に幸福をもたらすのは、他人が作った作品に強い好意や興味を抱き、その強い好意や興味のために自分が何かアクションを起こすことのできる事実なのである。
人は自分以外の他者から愛され承認されないと生きることが苦しいというけれども、同時に自分以外の他者を愛し承認できないこともまた苦しい。
だから、好きと思えるものがあって、好きと思えるもののリリースないしは偶然の遭遇がとてつもなく楽しみで嬉しいことは、大概煤けたような灰に霞んでいるこの世を生きるにおいて、自分が何かを愛することを諦める必要なんてないという証明だ。
諦めなくなって私は何かを愛せる力は残っているし、愛したいものがこの世にはまだまだたくさん残っているという、生きるゆえでのささやかな期待かつ希望、である。
 

20180910 南国の幻想 キノコホテルVS松永天馬 G-shelter

勤め人に与えられた3日間の夏季休暇というグレート・エスケープに、南国の澄んだ海と空の青を塗り敷いて、そこに松永天馬を浮かべてみたかったのだ。

そんなどうしようもない大人の痛々しい夏休みは、美栄橋ONのアコースティックワンマンに引き続き、那覇のG-shelterでのライブに足を踏み入れる。

 

オープニングアクトはぼけちゃん。

予定外にグッときてしまった。

よく知らない人からすれば「あ~、なんだか不思議なお嬢さん」と距離を置かれてしまうタイプのラブリーな装いの女の子が、ギターを背負ってまっすぐに歌う姿に見入ってしまった。

バンドメンバーから突然「走ろう」とLINEが届き、理由も目的もただただ夜の大阪を走り回った話もグッときてしまったのだが。笑。

笑ったって病んだって、歌いたい、伝えたい、表現したいことなんて生きていれば当たり前にあって、それを本当に歌えることってなんて素晴らしいのだろうと思う。

伝えるための声を言葉を音をそして意志を持つことはとても尊い

そうでないと、人の気持ちなんて日々に簡単に移ろって消えてしまう。

 

 

松永天馬は二番手にステージに登場した。

松永天馬とおおくぼけいの2人を目にして、おや、と思う。

彼らはとある予定外の事態を背負ってそこに立っていたのだが、この理由というのがもう。

 

書けないミラクル、が起こった。

書けないけれど、とにかく笑った。とんでもなく笑った。

現実は小説より奇なり、とはまさにこういう状況なのだと思う。小説より奇、どころかこれだけで映画が一つ出来上がりそうだ。

きっと映画ならば、「ミラクルを呼ぶ男。」とでもキャッチフレーズをあてがわれた松永天馬が、一行共々、対バンのキノコホテルをも巻き込んでドタバタ劇を繰り広げた末に無事にステージに立てたところのいいシーン。それが、今回の松永天馬のアクトだった。

昨日に続き、お約束のように松永天馬は「天馬のかぞえうた」でトイレに行った。昨日のライブでこの曲のことを「妊娠検査薬」と揶揄する声が飛んだが、あながち間違いではないのだと2日連続天馬にトイレに行かれて考える。

日本には言霊という言葉があって、口を開いて声にした言葉は、やがて現実の出来事になるという現象がある。「天馬のかぞえうた」のトイレタイムでは、客は演奏の最中、他の観客とともに「妊娠しろよ」と天馬の口ではなく自分の口で声を出して繰り返すことを強いられる。「妊娠」って大多数の人間の日常においてはデリケートな部類に入るワードで、さらにこんな扱いに注意が必要な言葉を命令形で使う機会など、滅多にない。(松永天馬のライブにしょっちゅう行っているとその感覚は麻痺するが)

とりあえず妊娠でもなんでもいい、その場にいる複数名で何かの言葉を唱和するという行為は、一体なんのために行われるのだろうか。

思い起こせば、日本の学校では朝の挨拶に食事の挨拶、始業・終業の挨拶に、クラスによれば学級目標だったり、学校によっては卒業式の児童生徒からのメッセージだったり、やたらと全員で何かを唱和させられる。20世紀風の旧式の風土が残っている企業の朝礼なんかでは、企業理念を唱和するところもある。松永天馬のライブに来るような人間は、だいたいこの類の唱和は嫌いなはずなのだが、しかしライブで松永天馬に指揮されるものであれば、厭わない者が多い。

その場にいる皆で、一斉に何か意味のある言葉を発声する行為には、挨拶のようにその言葉を発する習慣をつけるためであったり、また、その言葉に込められた意味を繰り返すことで各人の精神に身につけさせるためであったりする。そしてさらには、同じ言葉を発する人々と、集団としての一体感を得るねらいもある。

ありがとうございましたと口に出して繰り返すことで、一人一人に感謝の気持ちを起こさせる。卒業式のメッセージを口に出すことで、卒業というイベントの感動を共有する。企業理念を口に出して繰り返すことで、会社の一員であるという意識を根付かせる。

だから、言葉を声に出すことというのは力のある行為なのだ、人の心に作用する力を持つものなのだ。この力のおそろしさに、一種の魔力のようなものがあることを疑い得なくて、きっと昔の人は言霊なんて言葉を思いついたのだ。

 

では、ライブハウスで「妊娠しろよ」とメロディを辿り繰り返す我々に起こることは何なのか。

妊娠する?松永天馬の言葉で。しかも集団で。

いやいやまさかそんなオカルト。忘れられた山奥の村に伝わる口外禁忌の秘祭でもあるまいし。確かに客観的に見れば、ライブハウスの地下で「妊娠しろよ」と黙々と斉唱する老若男女の集団の姿は、熱海秘宝館ぐらいの異様さはあるかもしれない。

きっと孕むなら、「南国の幻想」だろう。

なにせSNSに書けないようなミラクルは起きるし、だいたい松永天馬のために沖縄まで飛んでしまう時点で気が触れかけている、よほど夢に浮かされているとしか思えない。私なんざは仕事の夏季休暇を敢えてこのライブに合わせた。

みんな松永天馬に何かを幻視幻聴した末にきっとここに来ていて、ここで「松永天馬」という表現がつくる3次元、もしくは個々の人間の感性に応じて現れるそれ以上の次元(超次元帝国などという国がありましたね)を感じている。松永天馬の指示で、松永天馬の言葉におのれの口唇を動かして、松永天馬の曲を辿る一つの集団になって、そして彼の表現に及ばされる。及ばされるものが、希望か毒かは、人それぞれだ。及ばされた者の精神がどんな化学反応を起こすか。

私はここに来るまでに、どんな幻を見たのだろうか。言葉を信じる者への希望だろうか。言葉の軽重がさっぱり量れないこの世で、自分の言葉が重いと疎まれて、疎まれることでささやかな自分を軽んじられて、やがて自分は一体何を考え何を発すればいいのかを見失いそうになる中に、見たのだろうか、希望。いいやそれとも、幻?

 

兎にも角にも、私だけでなく、きっと様々の期待や絶望やがプリズムのように現われたり消えたりする幻想がライブハウスにはかき集められていて、そこで響く「天馬のかぞえうた」は、やっぱり妊娠検査薬ではないのだろうか。

ステージの上の人間が創った歌の一つのフレーズに、観客一同が、音と言葉の連なりの一員として一斉に動員される。そこで感じることができるか、できないかを客側は検査されているのかもしれない。

感じる、ということは受胎に似ている、異なる細胞が反応を起こしてあたらしいものに変わることが受胎ならば、感じるということは、異なるものに触れてあたらしいものを五感でも思考でもどこでもいいから自分の中に発生させることだ。

感じますか。異なる人間であるあなたの中に、反応を起こす何かがありますか。

感じましたか、何を感じましたか。

LOVEと感じましたか、HARASSMENTと感じましたか。

あなたにとって松永天馬は。

 

だから松永天馬は最後、「妊娠しろよ」と繰り返して感じて浮かされている我々を諌めるように呻く。トイレから帰ってきた後に。

「だけど だけど出産するな 

   俺の言葉で出産するな

   俺の言葉を全部忘れろ」

 

ワンマンでないということで、松永天馬ファン以外のお客さんもいるライブであった。そこでの彼らの自身に対する説明がまさかの

「おじさんがチェキを売るバンドです!」だった。

ああ、そりゃあそうか。「最近はチェキを売るのが当たり前なんだなあ、フゥン」という感じで慣れてしまっていたが、確かにおじさんがチェキを売る光景およびおじさんのチェキに群がる女性たちの図は異様なのかもしれない。

ちなみに私は普段はこの類のものを買っていないので、詳しい事情というかみなさんが普段どんな感じなのかは存じ上げておりませんが、ただ冷静にみれば「おじさんのチェキ」ってなかなか面白いなあと思ったまでです。今回は沖縄にきた浮かれポンチなお登りさん気分が祟って、沖縄で見たもの聞いたものなんでも容赦無く思い出にしたい気分だったのでつい買っちゃいましたけどね。

 

そうか、改めて思う、おじさんがおじさんを売っているのだ。そして買い手の多くは女性ファン。

日本の「おじさん」と呼ばれる世代の男性というものは、夜の街で少女の春を買ったり、オフィスビルの上の方で若い女性向けの商品やマーケットを開発して資本を回したりする役割の人々であった。そんな「おじさん」が、自らが商品になるかどうかを試しにかかってきている。女性たちを商品として買ったり仕立てたりしていたおじさんが、自分は商品になりますかと女性たちの前で宣言している。

おじさんからの誘いは、いつだってHARASSMENTと捉えられるリスクを孕んでいるけれど、一方で松永天馬のライブのように、おじさんからの誘いをLOVEと受け止める場所がある。

ていうか、おじさんだって誰だっていいじゃないか。むしろ我々はおじさん、おばさんといった「性別×年齢」による基準で人のことを評価しがちな傾向について、もっと自覚的になったほうが良いのではないだろうか。「かわいい女の子」に値打ちがあって「おじさん」に価値がないなんてことはない。ちょっと前者の方が儲かるだけだ。そして儲かるということは、多くの人間が儲かる方の価値観を支持しているし、また多くの人間が儲かる方の自分に近づいたほうが幸せで、儲からない方の自分に自信をなくしがちだということでもある。

でも、人の魅力ってそんなに簡単だろうか。

そんな時代だから「松永天馬」のようなおじさんが堂々と歌ってくれるぐらいでないと、もう、こっちも安心して年がとれない。

死にたい死にたい言ってるうちに死なずにいたら、この国で今だにためらいを続けながらも蔓延る「性別×年齢」の軸ではあまり歓迎されない、三十路独身ババアというジャンルに私は入るらしい。らしいんですけど、それが何やねん。三十路独身ババアと簡単に呼ばれて安く蔑まれていいような人生だったら私とっくに生きてないし、「性別×年齢」で他人を勝手に見下して楽しむタイプの人間やエンターテイメントとはおさらばしたいから、松永天馬を聴きに那覇にまで来ちゃったのかしら。なにせこのライブに行くためだけに、仕事の業務日程ずらしたからな!!大人は楽しいぞ!!!

 

そして最後にキノコホテル。南国の生き物の羽や鱗がとりどりに光を放つようなギラギラのグルーヴが、ハコの中を怒涛のように支配する。

松永天馬が率いてきたミラクルも陰鬱もを、イイエこっちはこっちよと食い殺していくようなギラツキ。気づけば勝手に身体が動いていた。さっき松永天馬という幻想の熱帯をさっき抜けてきたのでしょうけれども、こっちにもエレクトリックで色っぽい地帯があるわよ、さあいらっしゃいと。

 

そこからのキノコホテル×松永天馬によるアンコール!

幻想の熱帯雨林で引きちぎって摘んできた草木を蒸留してできたとんでもない香りのボタニカル・ジンを脳天にぶち撒かれて、ブワッと飛んでしまったような一瞬だった。松永天馬の飛頭蛮が飛んだのをマリアンヌ東雲のヒールが蹴上げる、そんな幻覚だって見えた気がする。そんな合法的にイカれちまいそうな「好き好き大好き」。ええ、合法ですよ。イカレるならば合法が一番ですからね、ダメ・ゼッタイ。

 

ライブハウスを出たらもちろん全ては醒めていて、何事もなかったかのように知らない街の夜をホテルまで黙々と歩いた。コンビニで酒を買ってホテルの部屋に着く頃には、私の夏休みは最後の1日になっていた。

たいして好きでもないのに沖縄だから買ったブルーシールのアイスが溶ける。たいして好きでもないのに珍しいから買ったオリオンの酎ハイが、大した酔いももたらさずに消える。美味しいものも、ライブの興奮も、幻想みたいに現われては消えの繰り返し。

きっと幸福はそんなもんなのだ。ばかみたいに幸せな気分に浸されて、と思っているうちにその多幸感に満ちた心は、平坦にプレスして均されたり、何かがぶつかって損傷したり。あの幸せは果たして嘘だったのかしら、幻だったのかしら、と思いながらも、その幻みたいな幸福をきっといつかまた感じることができる自分の心を頼みに、頼りない心だけれども頼みに、やっていくしかないのだ。醒めた後の日々を。

20180909 松永天馬アコースティックワンマン「OKINAWA LOVE HARASSMENT」

好きな音楽を聴きながら、酒を飲んで街を見下ろし夜に腰掛ける時間は幸福だ。

 

小洒落たカフェバーで座ってダラダラ飲みながら聴く音楽はサイコーよねということです。この晩は沖縄の美栄橋ONというミュージック・バーで、松永天馬のアコースティック・ワンマンでした。

 

客は20人ほど、物販も松永天馬氏が対応というこじんまりとしたライブだった。

規模でいえばファン感謝祭といってもいいが、ファン感謝祭と呼ぶにはファンの交通費がちとかかりすぎる。なにせこの日の客のうちに沖縄からきたのは二人ほどで、あとは皆本土からの遠征者だった。メンバーの負担もそれなりであったようで、おおくぼけい氏は交通費と宿泊費で今回のライブのギャラが飛んだと言っていた。なので、2ショットチェキを買ってくださいと案内があった。

ギャラと経費の悲しい現実…それを言われると、普段そういったアーティストと接触を楽しむタイプの課金を好まない私も、せっかく沖縄にきたのだし、たまにはいいかなと思ってしまう。

多分、昔バンドマンと付き合っていたので、ライブハウスで演奏する側の事情の話をされるとついつい「そんな仕組みなのか大変だなあ、それならちょっとでも手伝えることがあれば」と思ってしまう心の習性が、別れてもう4年近くになるのにまだ残っていたんだと思う。

 

この20人前後の客と松永天馬氏およびおおくぼけい氏とが、国際通りの賑わいの気配を静かに見下ろしながらも、その明りからそっと踵を返して音楽の中に落ち着きたいと願わせてしまう心地よい雰囲気のミュージックバーのワンフロアに集い、ドリンクのグラス片手にゆっくりと楽しむライブが繰り広げられた。

いや、ゆっくりと楽しんだか、と言われるとどうだろうか。カフェバーでの座って飲みながら聴くライブだし、アコースティックだしで、しっとりと落ち着いていた…ことはないと私は思う。伴奏もなく、男一人の朗読だけでも大概暑苦しい松永天馬のライブに、しっとりという形容詞がフィットすることはないであろう。近いのは、しっとりではなくどちらかというとじっとりではないか。湿っぽいんじゃなくて、湿気。

彼の歌には詩には都市がある。都市はいつも乾いているようで誰かの欲望で湿気ている。

 

セットリストは、前半松永天馬ソロ・後半アーバンギャルドのセルフカバーといった構成だった。

欠かさず披露されるのは「天馬のかぞえうた」だが、この曲のライブバージョンを完成させるのは、ライブハウスのトイレかもしれないと確信した。

例年のワンマンライブに続き、またもや松永天馬は「天馬のかぞえうた」でトイレタイムを挿し込んできた。この曲のアウトロは、路地裏の夜影からボソボソと唸るような「妊娠しろよ 俺の言葉で妊娠しろよ」というフレーズを繰り返し、結びに向かう。

この「妊娠しろよ」というフレーズを観客にコールさせるや否や、突如松永天馬は尿意を催したと宣言する。そして、トイレに行ってくるのでその暫くコールし続けるよう観客に投げると、そのままトイレに駆け込む。演奏は続き、観客は戸惑いながら「妊娠しろよ」「妊娠しろよ」とおずおずと声を揃えて繰り返す。まあ、慣れてくるとノリノリになる。

このかぞえうた&トイレの流れに「妊娠検査薬」なんて揶揄が飛んだが、確かに私たちは試されているのかもしれない。松永天馬をどれだけ好きなのかと、好きなら妊娠しろよと公衆とともに歌えと。

さらには、その後のMCでもトイレの話をしていた。ライブハウスのトイレの石鹸が液体石鹸だからどうだとか、地方のライブハウスのトイレはどうだったかとか。さらには、ライブハウスの控え室に貼ってあった凛として時雨のステッカーが「殺人バンド 凛として時雨」というステッカーでダサかったとか。バンドの初期衝動を笑うでないよ。そういえば冬の松永天馬ソロツアーの難波ベアーズもそこまでトイレ綺麗じゃなかった気がするけど大丈夫ですかね。

 

この日、とくに私個人の印象に残ったのは、「身体と歌だけの関係」だった。

身体と歌だけの関係にしよう、松永天馬はそう語りかける。

ライブというものは、身体と歌に約束された1時間そこらのショウタイムであることはわかりきったことだ。銀色の円盤(を所定のファイルフォーマットに変換したもの)の中に閉じ込められた歌ではなく、松永天馬の生身の身体から発される歌のために。そして私たち観客はスマートフォンのディスプレイ越しにあった身体を、わざわざライブハウス、この日なんてわざわざ沖縄に遣って。そしてガンガン演って、ガンガン遣って。

 

さて、どうしてこんなところまで来てしまったかといえば、そこに松永天馬がいるからだ。

松永天馬の言葉がある、歌がある、パフォーマンスがある、そして松永天馬がいる。ただし、そこに居る松永天馬はあくまで「松永天馬」という名義を纏った男だ。私たちがチケット代を払った後の向こう側で触れられるのは、「松永天馬」というラベルを貼られた一見気持ち悪い男の姿をした不審なパッケージのなかに詰められた、彼の作品に過ぎない。だから私は、作品「松永天馬」を鑑賞しにきたというつもりだった。

それだというのに、松永天馬は作品だけでなく、チェキ写真をはじめとする彼自身とファン個人との接触の時間をも、物販ブースで売り出す。自分が作った作品、自分という肉体を一旦離れて紙や円盤のかたちになったものを売るだけにはもはや止まらないのは、当然敢えてのことだろう。金銭の事情も当然あるのだろうが、それ以上の意図がある。彼は意図的に「松永天馬」を売っている。

この日は、本土から遠く離れた沖縄の地で、20人そこらの客を閉じ込めた雑居ビルの小洒落たバーの一室で、彼は彼の言葉と歌を射って彼を売った。普段のアーバンギャルドやソロのライブに比べて、とても近いところで聴けたことに驚いた。また、大きな窓越しに夜の繁華街の街明かりが立ち上るほの暗い部屋に、レコードや音響機器やクールな調度品やオーナメントが然るべきところに集って落ち着いている都会的で洗練された雰囲気の会場自体が、まるで小さなシェルターのようだから、自分は何か特別な空間に

連れてこられたかのような錯覚に心地よく酔いたくなる。

でも、酔い切ることはない。変わらないのだと思ったから。この日とても近い場所にいた彼が歌う場所がどれほどのハコであろうが、彼が一人で向き合う人間がたとえ何人であろうが、変わらない。

彼は、「松永天馬」というプロジェクトでありプロダクトだ。表現であり作品であり商品だ。

だからこそ、松永天馬と私たちは『素敵な僕らの素敵な歌だけの関係』でいられる。

松永天馬の身体と我々の身体が小さな小部屋の中で相対していて、相対する空間には歌がある。この空間に松永天馬は確かに居るけれど、その本質は彼自身ではなく、彼の歌であることを望まれている空間ではないのだろうか。

歌だけが残る、歌だけが残る、松永天馬は何度も繰り返す。

歌の中で彼はひたすらに独白を続ける。愛することがハラスメントと受け取られる時代に危惧したり、プレイメイトと称する誰かに愛のような憎しみのような囁きをして見たり、俺の言葉で妊娠しろよと客に迫ったり、好きな男の名前を腕に刻む女の歌をカバーしたり、ロックンロールに十字を切ったり、死の前の七日間の恋を試みたり。ソロで、独りで唸るように黙々と、歌う。松永天馬という男が血と精のはざまに吐き出す言葉が、歌だけを。

この歌の中に私たちもいない。私は確かに歌を聴いているけれど、この歌は松永天馬の歌であり誰の為の歌でもない。あるのは歌を聴いて発生した自分の感情の動きだけだ。

 

身体、言葉、歌。ただそれだけが、熱を帯びて顕われ、そして終わりの時間が来れば霧のように散って消えていく。

 

どこで聴いたって。

東京でだって沖縄でだって、大きいライブハウスだって小さなミュージックバーでだって。

 

ただそれだけの関係のために、遠い遠い離島で夜を明かす。

さっき観た「松永天馬」は誰だったんだろうかと思いながら、彼の歌を繰り返しプレイしながら、身体と歌だけの関係をプレイして夜を閉じる。

PLAY ないしPRAYして。

 

しかし、最後のアンコールで「生転換」って叫んだら本当に叶ったのがとても嬉しかった。「生転換」が大好きなんですよ。一番最初に六本木で聴いたときの「私ようやく生きられる」のフレーズで、自分の中で構想していた物語の塊の主人公がはっと目を見開いたような感覚に襲われた。

「ようやく生きられる」なんて歌詞があるけれど、松永天馬ソロって「生きよう」という意思が強い気がする。恋だって生きているゆえの能動的な行為だし、血や精は生きている人間から流れるものだし、妊娠して生を孕めよとリピートする(させられる)し。

泥のように濁った自意識に膝抱えて沈んで死を夢見ている場合じゃない、けれど泥にまとわりつかれた身体は簡単に自由にならないと足掻きながら生を目指すような。

 

まあかの夜が夢であろうが現であろうが鬱であろうがライヴは続く、続きは翌日のG-Shelterのライブへ。

休日に愚痴をそれでいてお茶を

たとえば羨んだってどうしようもないのに羨んでしまう他人の幸福だとか

他人様との折り合いにおいては不利でしかない汚い気持ちが

何かの拍子にグツグツと熱を得て煮えて来るときがある。

 

でもまあ、永久保証の幸福なんて誰のところにもないから大丈夫、と

元町の香港カフェで買った中国茶をひとくち啜る。

幸せな気分と不幸せな気分とを遣り繰りしながら、なんだかんだで何とかやっていくのだろう。

ティーポットの中で中国茶の黄色と桃の花が揺蕩う。

お茶と一緒に買った茶梅も全部食べてしまおう。

不機嫌は残念ながらその程度のことで消えてしまいはしないけれど、花の咲く中国茶の良い香りと茶梅のやさしい甘さとを愉しんでしまうことは妨げない。

差し湯を沸かしに行こう。

180825 「バウハウスへの応答」京都国立近代美術館

バウハウスへの応答 | 京都国立近代美術館

 

デザインは、何より人間のためにある。人間が、かつて神様の物語や自然の及ばない広大さを畏怖して暮らしてきたことに比べれば、実に。

芸術はかつて神様の世界の道理を語るためや、自然の万物事象を描き写すために発展してきた。しかしやがて、人間は人間自身の生活の効率や機能を重視してものを作るようになった。人間は、優れた造形のものたちを、額縁やショウケースの中に飾って堪能するためだけならず、人間の生活の役に立つためにも造っていく。人が作り出すもの価値を測る基準に、すがたかたちが巧みで美しいかという尺度のみならず、それを使って暮らしていく人間にとっていかに実用的であるか、機能的であるかという尺度も大事にされるようになる。

この考え方をひとつの思想のかたまりにしたのが、デザインなのではないだろうか。私はこの分野について専門的な教育を受けてきたことはなく、詳しいことなどさっぱり知らぬ素人なので、あくまでも素人の雑観なのだが、「デザイン」というものの説明のひとつとしてそういうところもあるのかもしれない、と思った。

 

そして現代の私たちは、この美+実用・機能を重視する価値観を基本に、当たり前に暮らしている。おかげで、このブログを書いているMacBookairも、ベッドの上で充電器に刺さったまんまのiPhoneもみんなスリムなフォルムかつ便利なアイテムだし、iPhoneを寝かせているベッドのリネンには機嫌よく眠れそうな綺麗なブルーの花がプリントしてあるし、ベッドのフレームだって、組み立て式の安物ながら人間一人が寝るには十分な形を保っている。

こうやってデザインの恩恵に囲まれて私たちは暮らしていて、でもこの「デザイン」が、いかにして私たちの暮らしに対する考え方や美意識を変えたかということに気づかせてくれるのが、京都国立近代美術館バウハウスへの応答展」だ。

 

バウハウス」って、どれぐらい有名なのだろうか。

私はたまたま学生時代、近代史や西欧文化についての講義がふんだんに組まれたコースにいたので、バウハウスの存在を見聞きしていた。19世紀から20世紀にかけ、新しい政治や文化が次々生まれていく時勢において、芸術の界隈に現れた革新的な学校。校舎の外壁に堂々と並ぶ「BAUHAUS」のロゴを仰いで撮った写真が有名なクールな建物の学校。この写真が日本人の留学生によって撮られたことも知らなかった。(もし学生時代の講義で解説されていたのならば、当時の教授、不真面目な学生ですみません・・・)

www.cinra.net

バウハウスの設立は1919年で、このころの日本は大正時代、明治維新以降に西洋から取り入れた煉瓦造りの大きな西洋風の公共建築や、設備などが少しばかり近代風にアップデートされた旧来の日本家屋が入り混じっていた頃だろう。そんな時代に、コンクリと全面ガラス貼りの四角い箱が組み合わさってできたモダンな建物で学んでいた日本人がいるなんて、とってもカッコいい!

 

そう、バウハウスは、かっこいい。

展覧室に並ぶ、コンクリートとガラスでできたあの近代建築のデッサウで育まれたものたち、デッサンや講義ノートや立体の習作といったものたちは、幾何学的なモチーフの組み合わせや、ビビッドで重い独特の色使いや、計算されたかたちに溢れている。これらはみなとても人工的な姿形をしている、自然の森や海にはない色づかいやかたちをもつ、人間が人間のために整えたかたちをもっている。何もしなくても眼前に広がっていたり、そこに当たり前に植わっていたり流れてきたり降ってきたりするものではなくて、人間が意図的にそうあるべしと作ったーデザインされた姿形をしている。こういった人工的に設えられもののことを、私たちはモダンだと称するようになり、そしてまた魅力を感じるようになった。

現代の私たちは、あらゆる人工物に囲まれての生活が当たり前であるから案外気づきにくいのかもしれないが、人類の歴史において、ここまで徹底的に人工的なものを、美しい、素晴らしい、と多くの人が認識するようになった時代って、もしかしてバウハウスができた頃の20世紀やそこらの話なのかもしれない。神様でも自然でもなく、人が人のために意図してデザインしたものに美を感じるという、新しい体験をしたのが20世紀であり、モダンな時代だったのかもしれない。そして20世紀のモダンの先に訪れた次の世紀を、ノストラダムスのこともすっかり忘れて生きている現代の私たちは、人工的なモダンデザインを愛しつつ、かつ、人工物とは対象にある、森や海といった自然の美しさ、寺社仏閣の厳かさ、動物の愛くるしさなどをも同時に愛でながら生きている。

モダンなものは魅力的だ、人工的なものは魅力的だと思う感性の根っこのようなものを、たくさんの人にとって確かなものにした大きなきっかけの一つが、バウハウスだったのかもしれない。バウハウスは、こういったモダンデザインの考えを、ジャンルを限定せずに展開しようと試みてい他のだろう。建築に、工芸に、絵画に、とにかくあらゆる「手工業」に、職人仕事に。人が生きることにまつわるありとあらゆるものに、モダンデザインを適用しようと。

 

キュレーターでも何でもないので、公式サイトや情報サイトの説明通りのことしか書けないのだが、「バウハウスへの応答」と題されたこの展覧会では、バウハウスの影響が、日本とインドでどのように受け止められ、発展していったかが紹介されている。

日本では、ポスターのデザインから店舗のレイアウトまで、日本で造られるものをより洗練されたものへとブラッシュアップしていくために、バウハウスの考え方を紹介した記事や、バウハウスの考え方を取り入れた教育カリキュラムが組まれたりしていった。

一方で、インドでは、デザインするものをモダンに洗練させていくという方向ではなく、インドに昔からある民芸的、土着的な手工業を生かそうとする教育機関が設立され、それがカラ・ババナという学校だそうだ。カラ・ババナの展示室は、説明されなければ、まさかバウハウスの影響を受けたものだとはわからない。それほどに、身近な生活の一片を描いた水彩画の絵葉書、刺繍織物、素焼きの玩具、木や藤の家具といった、その土地の人々の暮らしに根付いた作品たちが並ぶ。

「職人と芸術家の垣根をなくし、手仕事を大事にする」というバウハウス設立時の理念は、インドの織物や木工や陶業といった手工業に光を見出したのかもしれない。このインドのケースを考えると、日本にだって同じように、陶磁器職人や畳やふすまの職人、瓦の職人に着物の染や織りの職人など、日本古来の手工業の職人がたくさんいたはずなのに、こちらを活かす方向にはバウハウスの理念が生きなかった。でも、日本のモダンなグラフィックやモチーフも、インドの伝統的な工芸品も、どちらも「バウハウス」というテーマのもとに集合しているのだから、面白い。

 

そうだ面白いな、と思ったのは、バウハウスに留学生していた女性によって、家庭用の手織り機が開発され、発売されていたという展示だ。日本のバウハウス受容は日本の伝統的な暮らしの文化とすれ違っていたように思えたが、そうでないケースもあった。古来のドイツで学んできたモダンデザインの機能性の考え方を、日本の家庭の主婦が使う道具にいち早く取り入れた人がいる。

この手織り機は「みちこ・ておりき」という、とっても可愛い名前がついているのだが、日本の家庭の主婦の暮らしも、もっと便利に、もっと機能的に変えられるんですよ、というバウハウス帰りの先進的な女性からのメッセージなのかもしれないと私は思った。生活の仕方、暮らし方そのものだって、デザインの対象なのですよ、というメッセージ。

 

じゃあ、バウハウスから100年近い年月を経て、すっかり近現代デザインの恩恵にまみれて生きている私たちだけれど、果たして自分の生き方については、どれだけデザインしようとする意識で生きられているんだろうか。

 

デザインは、とても人間中心的なものだ。人が、人間の美意識や生活の快適のために、ものを作っていく営みだ。そして、人のためにものを造るということは、人がどう生きたいかを考えることでもある。ものをデザインすることは、人の生き方をデザインすることでもある。人が人らしくいようとする事態の表現である。

平成もとうとう終わろうという2018年、私たちはありとあらゆるデザインされた道具や建物や風景に囲まれて生きている。物だけじゃない、世の中のシステムだって言ってしまえばデザインだ。怪しい制度になっていつつも老齢年金がもらえることだって、私たちの老後の暮らし方の方針の手段であり表現だ。

ありとあらゆるデザインされた物たちが豊富で、私たちはこの豊富なデザイン済のアイテムから、適宜必要なものを選んで享受すれば、充分スマートに生きられるとされている。

けれども、私たちはデザインの見た目の美しさやキャッチーさにばかりつい気を惹かれがちで、つい忘れがちになってしまう。どんなデザインを好むか選ぶかは、自分という人間がどうありたいか、どう生きたいかの問題にもつながるということを。

 

バウハウスは、デザインすることに自覚的でありましょう、と宣言した学校であったのではないかと思う。この宣言に、かつての日本人も、インド人も、応答した。それが「バウハウスの応答」展の中身だ。では、バウハウスの100年後を生きる私たちは、どれだけバウハウスの理念に応答できるのだろうか。人が人らしくあることに、自覚的に生きられているのだろうか。

 

そういえば惜しむらくは大判のパンフレットをもらわなかったことだ

今回の「バウハウスへの応答展」もかっこいいの用意してくださってたみたいだが見事に受付に寄るのを失念

 

 

 

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京都国立近代美術館の1階フロアの奥の、静かな静かなロビーに、

真夏の日差しに眩しく褪せていく緑

岡崎公園をめぐる赤いドレスが翻すは幸福の端