グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

孤独を殺さないでくれ

誰にも理解されない、なんて拗ねたことは言わない。誰にも理解されないし、理解される必要のない幸せがある。

その幸せは、内にある。誰かの容易い共感も同感も決して許さないほどの、自分一人の感性の内々の奥にある。

自分の殻、と世間一般的には破った方が生き易いとされる境界の内側を、目一杯に駆け巡ることでふんだんに湧いては止まらぬ幸福がある。

湧いては止まらぬそれは、決して自分という枠の外へ流出することはないけれど、それでいいんだ。

 

例えば、一人で行く美術館や、建物や、旅先のあちこちの景色。

自分のペースで絵を観て、誰かの意見によるものではなく、自分がピンときた絵の前で、好きなだけ立ち止まる。時に作品の色彩やかたちの巧みさに感激し、驚き、時に作品から発されるエネルギーのようなものにあてられそうになって、乱れそうになる呼吸をふうと整える。

 

街をふらふらと歩いているとき。街はあらゆる商品と、商品たちを魅力的に見せるための細工や仕掛けとを詰め込んで、できている。きれいになりたい、かわいくなりたい、かっこよくなりたい、快適に暮らしたい、美味しいものが食べたい、刺激が欲しい、便利に暮らしたい…あらゆる誰かの幅広い欲望が、形になってそこかしこにプライスタグと一緒に並べられている。とりどりの「誰かの欲しいもの」を観ながら、人の欲を叶えるために作られたものたちといえど、この世にはこんなにもたくさんの色や形や匂いや味や手触りに溢れているのだ!という事実に素晴らしさを覚える。

 

この私が私の中でささやかに感じている小さな胸の震えは、誰とも共有できないし、共有を試みたって仕方がないと思う。誰かと同じものを食べて「美味しいね」と言うことももちろんとても幸せだ。しかしそこからさらに深く、お店の雰囲気がああでこうでとってもときめくのだ、こんなお皿にあんな形の飾りが乗って出てきた食べ物のことがどうだ、といったことをいちいち仔細に語ってはいられないし、言語化して表現して相手に伝えることだけが物事の楽しみではない。そこに居ることで、現在進行中で湧いてくるものを、感じたままの感触で、自分の内面だけで堪能するのも楽しみだ。

音楽や文学や映画だってそうで、感想なら人と言い合えるけれども、鑑賞中や鑑賞後の胸の高鳴りやざわめきは、他人の胸中でも自分と同じ高鳴りやざわめきを起こすことは不可能だし、感じたままにしか味わえない類のものだ。

 

私は、そういった一人で感じてこその幸福に縋って生きている。私の外側にいる人間たちとの心の通い合いに安らぎれない性分である以上、それが至上となってしまうのだ。精神の内皮に包まれたままで、誰の都合でもなく私だけの感動一つでぱっと発熱し、じんわりとあたたかく居てくれるもの。それと、生活のためのある程度のお金と仕事があれば、うん、充分生きていられる。

この熱を何よりも大事にしたいと思えるようになったとき、少なくとも、10代や20代の時に苛まれていた自分という人間のすがたかたち、こころのありようで生きていかなければならないことへの絶望はもう感じなくて良くなった。

 

一般的に、孤独はネガティブなイメージで使われるけれど、孤独でなければ得られない感動もまたあるのだと思う。人それぞれに独立した感性ゆえに得られる喜び、いわばポジティブな孤独がある。もちろん、他人といる時間も大好きだ。私を取り囲む人々は、ありがたいことに優しくて、親切で、愉快な人ばかりなものだから、こちらも必然的に明るい心持ちにさせられてしまう。

でも、それだけが私の幸福ではない。人それぞれに幸福感の材料にはいろんな配合があって、私の場合は、そこにポジティブな孤独の配分が多いのだ。

 

そんな私が恐れているのが恋愛である。

恋愛は、幸福感の原材料の配合の比率を変えてしまうようで怖いのだ。

まず、恋愛は赤の他人と深く付き合うことで、二人でいることによる新しい発見や安らぎや喜びを見つけていく営みなのだろうと思う。二人でいることに得られるものがなければ、交際の意義は見失われる。

けれども、交際には努力も必要だし、時間も取られる。ひとりでいる時にはかからない精神的な労力や、ひとりでいるための物理的な時間が奪われる。

けれども、それを不幸と思わないのだろう、私は。でも、もしも、ひとりでいる時間を削られることが不幸と思えなくなってしまったら、敗けてしまうようで悔しいのだ。何より一番大事にしてきた孤独の感性の居場所を、どうぞどうぞと易々恋に譲り渡してしまうみたいで、怖ろしいのだ。

 

まあ、そんな事が簡単にできるほど私は誰かのために生きてない。

だからどうか殺さないでくれ、私の孤独を。

 

けれどもいざとなれば、私の精神というやつは、誰かのために優しさや喜びを働かせてしまうことが、案外たやすくできてしまうらしい。誰かと一緒に幸福を試みることに、勢いで試みてしまえる奴らしい、私は。

つい先週、ひょんなことからこの誰かと一緒に幸福を試みる機会を与えられることになってしまい、私は戸惑っている。とりあえず日曜の今日、私は自室で一人MacBookの前に座っていられる自由を得たので、安堵してこのブログを書いている。

 

とはいえ、孤独が愛おしいのも、孤独を脅かす恋愛に怯えてしまうのも、結局は、私が人を愛しているからというだけのことなのだろう。私は人を恐れながら、人が好きだ。人が好きだからこそ、人からの疎外が怖い。人と自分との違いをまざまざと思い知ることで、孤独に価値を見出すと同時に、違う人間同士が共に過ごす事態がいかなる偉業かとも思えるようになる。

ひとりで味わうことが大好きな、作品や街の商品たちといったあらゆる美しいものは、全部人が作ったものだ。アレらは、人が作ったからこそチャーミングなのだ。

ひとりの幸せと、誰かといる幸せは、どっちがどっちというものでもない。根っこは同じ人であることで、表裏一体だ。

 

問題は、両者をどう配合して行くかなのだ。

そこに、昨今の試みの課題がある。なにせ他人と一緒にいるタイプの幸福は、相手の以降もあるので、こちらの一方的なこだわりだけでやっぱり辞退します、ともいえない。やってみてもいいかな、という意思を見せてしまった以上、もうやってみるっきゃない。

 

というわけで、私の孤独を殺さないでくれという願いは、新しい段階へ進むかもしれない。