グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

作品との出会いそのものの幸福について

遥か昔、私が大学生だった頃、とある有名出版社の面接だった。
あれは一体なんの質問であっただろう。
本の何に価値があるかだっけな、それとも何故出版の仕事がしたいのかだっけな、
質問は覚えていないけれど、自分の答えたことはうっすら覚えている。
 
私は四国の田舎で育った。
田舎にも文化を届けてくれるのは、
都会にあるけれども田舎にはきてくれない素晴らしいものを届けてくれるのは、本なのです。だから、と。
 
それから10年近い時間が経とうとしている。
当時は所謂意識の高い人たちや物好きが持つアイテムだったスマートフォンは、
もはや全国民的なアイテムとなった。
インターネットを経由した文化の流通経路はますます発達して、あの頃ほど「本」に拘る情熱を保つことは難しくなっている。
 
けれども、きっと変わらないと信じたいのは、手段が電子か紙かは問わず、誰かの作った素晴らしい作品が、この手に入る喜びである。
本屋で平積みになった文庫をひとつひとつ手に取りながらあらすじを確かめて、これをゆっくり読むために連れて帰りたい!と思える一冊に出会えた時の嬉しさ。
好きな作家や音楽家の新作発表の知らせを受け取り、発売日をワクワクと待っている嬉しさ。
欲しいのはまず第一に作品であるのは当然なのだが、そこで付随的に私に幸福をもたらすのは、他人が作った作品に強い好意や興味を抱き、その強い好意や興味のために自分が何かアクションを起こすことのできる事実なのである。
人は自分以外の他者から愛され承認されないと生きることが苦しいというけれども、同時に自分以外の他者を愛し承認できないこともまた苦しい。
だから、好きと思えるものがあって、好きと思えるもののリリースないしは偶然の遭遇がとてつもなく楽しみで嬉しいことは、大概煤けたような灰に霞んでいるこの世を生きるにおいて、自分が何かを愛することを諦める必要なんてないという証明だ。
諦めなくなって私は何かを愛せる力は残っているし、愛したいものがこの世にはまだまだたくさん残っているという、生きるゆえでのささやかな期待かつ希望、である。