グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

松永天馬殺人事件 20190119京都出町座

映画なんだから、結末は何度見たって一緒のはずだ。撮られた映画は、フィルムに焼き付けられ、再生されるシーンとされないシーンとが切ったり貼ったりで再構成されを経て、未来に書き換え更新される可能性を奪われた、ひとつの完成系の過去になる。完成された過去の連なりを変えることはできない。

それなのに私は2度目の「松永天馬殺人事件」を観に行く。結末も知っているのにーいや、あの映画に結末なんて、さて?

なんて勿体ぶってクエスチョンマークの先に何らかの展開を匂わせるような書きぶり、くだらない。大した理由などあるか。その日私が京都に向かったのは、ただの松永天馬ファン故でしかない。それ以上の理由でもそれ以下の理由もない。

 

この日「松永天馬殺人事件」が上映された京都出町座は、監督・主演・その他一式を手がける松永天馬が卒業した同志社大学の近くにある。そこは小さなアーケード街の一角にあるのだが、さすが京都というべきか、小さいながら決して庶民的な薄汚さなどは一切なく、こじゃんとした佇まいである。

 

何年か前に、京都のNHK文化センターで松永天馬の公開講座が開催されたことがあった。そこで確か松永氏は、京都の街は、東京で生まれ育った彼が、いわば「アウェイ」を味わって過ごした街だったというような話をしていたかと記憶している。彼はやがて東京に戻り、出版社での仕事やら音楽活動やらに奔走している間にとうとう映画を作った。彼の作ったこのとんでもない映画は、東京での公開を経て、とうとう関西のシアターを巡ってきた。

東京各地のシアターから関西へ、「松永天馬殺人事件」という映画の上映回数が増えるたび、日本の津々浦々に殺人事件の目撃者が増えていく。目撃者が増える分だけ、殺人事件に対する証言の数も増えていく。けれども、その先に事件の解決があるとは私は思えなかった。映画の結末がどうであれ、この映画に対する解決が、スッキリと導き出されるとは思えなかった。国民的探偵もの推理アニメは真実はいつも一つ!と謳うし、明智小五郎だって犯人を明かした先に話を結ぶ

けれども、「松永天馬殺人事件」の犯人が誰とか以上の、この事件とは一体何だったのかということを、探偵のように断定できる者なんているんだろうか。既にだって十三で私はわからなくなったのだ、誰が殺されたかが。

 

でも、2度目に見たら、また新しい手がかりを見つけるかもしれない。

そうして小さなシアターのシートに私は身を落とす。

 

結論としては、やっぱりわからずじまいだった。誰が殺されたか、誰が犯人か、罪状は何なのか。これは本当に「松永天馬が殺された」というだけの事件なのか。

…やっぱりみんな、わからずじまいだった。

 

ただ一つ、新たに感じた事がある。それは、殺されたのは松永天馬だけではない、ということだ。映画の中で殺された松永天馬は、上映と同時にまた、映画館で誰かを殺している。

「松永天馬殺人事件」はムーラボという映画祭の出品作で、短編と長編を同時上映するという形式を取っており、「松永天馬殺人事件」は長編に当たる。だから、「松永天馬殺人事件」の前には別の短編が上映される。0104の十三は「内回りの二人」、0119の京都は「ドキ死」が同時上映の短編だった。出町座では「ドキ死」の舞台挨拶が行われたのだが、監督の井上さんは、「松永天馬殺人事件」が同時上映であることが正直歓迎できないような風のことを言ってた。そりゃあそうだと思う。

どちらも、松永天馬殺人事件がなければ、心地よくあたたかな気持ちでシアターを後にできる映画だった。

「内回りの二人」で映し出される、冷たいコンクリート構造物と不夜城と称される街から小さくも無尽蔵に供給される灯りとが成す東京の夜の画に満ちる、無機質なのにどこか有機的な匂いを感じてしまう都市の情緒。ヒロインが歌うテーマソングは、一度聴いたら忘れられなくって、いまだについ炊事の合間に口ずさんでしまうキャッチーさ。人間同士がたまたま出会ってたまたま近づいて、そして。そんな、その渦中の時は大事件だけれど、きっと長い人生というスパンで振り返ってみれば些細な出来事が、丁寧に描かれた映画。

「ドキ死」は一人の女の子のささやかな恋物語が、奇天烈な男にかき回される物語。他人を受け付けない激しい内気、相手の気持ちを一切顧みない激しい思い込み、ベクトルの違う内向きな恋が事故的に出会ってしまう。主演のnakanoまるさんがとにかく可愛らしい。舞台挨拶に登場したnakanoまるさんは、華奢の概念をふんだんに凝縮したような女性で、ギターを弾き歌う姿も魅入ってしまうし、弾き語っている間にロングヘアーの毛先がギターに引っかかりそうになるのを気にしている仕草もいちいち良い。ギターという楽器を扱う人間が果たしてここまで小綺麗に愛らしくて良いのだろうか、と新鮮に映る。と言うとお前のギターのイメージは何なんだよ、うん、感情や情念の表現のための道具だとついつい思いがちな趣味をしてるせいですね。

 

こんなにもあたたかな、さわやかな気持ちになるきらきらした小品のあとにサーブされるのが、「松永天馬殺人事件」という、ある男のある部分が拗れて腐った臭いが混じるどろどろの100分。鑑賞後の気持ち悪さが、同時上映の作品たちに抱いた素直な喜びを、遠慮なく殺してくる。 

 

出町柳を後にして夜の河原町の路地裏に向かった。友人のそのまた知人のやっているバーがあったことを思い出したのだ。

流石京都の小綺麗なバーだったが、2度目の松永天馬殺人事件の後の夜、洋酒だの澄んだ色の酒だのを飲むような気持ちではなかった。だから、熟成してこっくりと飴色になった剣菱の古酒を熱燗にしてもらった。スクリーンの向こうから散らされたあの事件のなまぐさい匂いを紛らわすには、濃い酒でも飲まないとやっていられなかった。