グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

美しい海岸を見た話

職場の面々と一泊二日で鳥取方面へ行ってきた。

私も大人になったものだ。元来社会不適合な性分ながら、運よく今の職場に拾ってもらったおかげで、私は「ちゃんとしたところに勤めている正規雇用の社会人」「安定収入」という現代日本における生存のためのスーパーアイテムを手に入れた。肩書きと安定収入は、個々人のロクでもない性質性格なんていとも簡単に覆い隠してくれる素晴らしいマスクで、これがあるかないかで人生の難易度がだいぶ変わってくる。こんな私にもこのスーパーアイテムを与えてくれた恩から、仕事にはそれなりにきちんと勤しんでいる。このマスクがなければ到底生きるのに困難する社会不適合な性分を、日々頑張って勤め人の型からはみ出さないように流し込むことに努めながら。

 

そう、まともに働く私は、もともとそういうかたちにできているわけではない。型をとって作った私だ。だから、時々型からはみ出したくなって疲れてしまう。だから、なるべく型どおりでいなくてはいけない時間は少なくいたい。

それなのに、4月から勤めている今の職場は、スポーツのようなレクリエーションが盛んで、どうやらこのレクリエーションに参加して、コミュニケーションの深度を深めることが仕事を円滑を進めるための鍵らしい。というわけで、不本意ながらも私は集団でスポーツという、内向的にインドアにひとり気ままに過ごす時間を愛する自分の性質とはさっぱり真逆のアクティビティに参加してしまうこととなった。

友人各位から、お前がスポーツなんて大丈夫かと懸念の声が上がった。通信簿は体育だけ2だったし、高校生の頃の球技大会は、私の性格に理解を示してくれていた担任が無理はしなくていいぞと欠席を許してくれるほどに私は集団での和気藹々とした活動に不向きな人間だった。

 

そんな私が、職場のみんなで、スポーツのアマチュア大会に出場するために、車に乗って朝から一泊二日の旅へこりゃあ過剰適応だ、と自我自賛、ええ自賛です、自分で自分を賛美してやらないとやってられませんわ。大人になるって、こういうことなのか。

 

 

そして車は延々と日本海沿いを走り抜け、浦富海岸に着いた。

そこに待っていたのは、自分の本性に反する選択をしないと出会えない場所だった。自分一人ならば絶対選ばなくて、仕事がなければ選ばなかったルート。

 

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初めて見る日本海の海岸は、とんでもなく美しかった。

南の島のものだと思っていたエメラルドグリーンの海は、兵庫と鳥取の県境にあった。

水平線の向こうから砂浜に押し寄せてくる波はひとつひとつが大きく荒く、瀬戸内育ちの人間には想像のできない厚みだ。轟々と立ち上がる白い波飛沫の端は、まるで削れたエメラルド色の鉱石の端みたいだった。あまりの高波は、テトラポットをも砕かんとする勢いで容赦無くぶつかっていくが、灰色のコンクリートのブロックの前に白い宝石の破片をきらきらと散らしながら消波されていく。

ゴツゴツとした赤茶の岩が積み重なった上に松や木々の緑が被さって、小島のようになった岩場がエメラルドの上に浮かび、また岩場と岩場の合間に、夏の陽を浴びてきらめくエメラルドの揺れを閉じ込める。

 

 

この海岸は、日が暮れてくれてもまた素晴らしかった。

一通り遊んで夕食を済ませた後、花火を持って再び浜辺へ繰り出した私たちを待っていたのは、夕暮れの橙と夜の藍が、水平線に沿って溶け合っていく瞬間。

燃え上がるような激しさで暗闇に抗っているのではなく、夜の訪れを穏やかに待ち受けていて、ゆっくりと瞼を閉じるように沈んでいく夕日だった。

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そして昼が完全に眠りに落ちると、夜が果てから果てまでを藍に塗りつぶし、そこに無数の星を引き連れて散りばめていく。手に握った柄付き花火が色とりどりのささやかな閃光を放って弾けていくのを見送り、歓声をあげて愛らしい火花の周りに集う職場の人々を見遣り、天を仰ぐ。星はこんなにもびっしりと存在していたものなのだろうか、と驚くぐらい、小さな星も隠れることなく、確りと星の並びの上の己の座に据わっている。誰かが空を指差し、有名な星座の名を挙げる。

 

美しい。美しい。何度も口に出さずに胸の中で繰り返した。

きれいだね、と誰かに言いたかった。

でも言わなかった。言いたい相手がいなかった。

私の感じた美しいという気持ちを、是非とも一緒に貴びながら、傍に居て欲しいと思えるほどに想っている人間が、そこにはいなかった。目の前に広がる驚くべき青の広がりや光の粒たちを、是非とも一緒にいとしみたい相手がいなかった。

 

これは寂しい事態だと思った。

でも、寂しくてよかったと思った。寂しさをきちんと取り戻せてよかったと思った。

 

働いていると人に囲まれている時間自体は多いので、孤独からは遠ざかる。この日のように、休日も職場の人間と外出するようなことがあると、なおさらひとりになれない時間は多い。

けれども、ひとりになれない時間が多いということは、感情のリソースを自分のためだけに割く時間が少ないということでもある。ものの感じ方や考え方のチューニングをどうしてもその時一緒に活動している他人に合わせてしまうので、自分のチューニングで

自分のためだけに、物事に対してきれいだとかしあわせだとかを感じる余裕が減る。

ただでさえ、不適応な人間性を社会性の型からはみ出さないように気をつけながら生きているのに、とうとう休日であるはずの土日まで型の中にいろと言われれば、当然、私がすり減ってしまうばかりだ。どんどん私の精神が仕事中心になっていってしまい、型からはみ出すものたちは、表に出すべきものではないものとして捨ててしまわないといけない危機感に苛まれて暮らしているというのに。

 

それが、他人に自分のあり方を制限される過ごし方をすることで海に連れて行ってもらったおかげで、私は自分のあり方を取り戻したという奇遇な経験をした。

たくさんの他人と一緒にいながら、誰にもきれいだね、と言えない私は見事に孤独で寂しい。だから、私の感じたものは私のものでしかない。誰にも共有できない幸せ。共有なんて望んでもいないし期待すらこれっぽっちもしていない幸せ。私がただ私のためだけに、美しいものを美しいと感じて悦に入ることのできる権利。

 

他人と一緒にいることで出会えた景色が、尊い孤独を思い出させてくれた。

それほどに圧倒的なブルーが、あの海の夏の昼と夜にあった。

20180811松永天馬「PLAY MATE」@六本木CLUB EDGE

遊ぶことは、「PLAY」

祈ることは、「PRAY」

音楽を演奏することも「PLAY」

 

アソボウヨ、と誘われて六本木。

8月の東京は、例年にない高温を記録し続ける夏空の容赦ない熱気をいっぱいに含んで、ずぶずぶになった湿気が満ち満ちていた。じっとりとした多湿な空気に、生臭く腐ったような臭いがなんとなく混じる。人間の臭いだ。高層ビルから雑居ビルまでが、見渡すあちこちに無節操に建ち並ぶその狭間に、ちゃちなエスニック屋台からすましたファッションビルまでが、憚りひとつなく客を呼びあう消費と消費の狭間に、夏の人間の臭いと夏の湿度がぎゅうぎゅうに充満している。鼻をつくこの臭いは、何かを求めて街へ出てきた人間の臭いー要するに、人の欲が饐えた臭い。

そんな夏の東京を汗ばみながら歩み行き、六本木CLUB EDGEへと向かう。

 

階段で、爽やかな若い男性スタッフが無料配布のドリンクを配っている。

その名は「TENGA NIGHT CHARGE」

 

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この春に松永天馬がTENGA公式サイトのインタビューを受けたこと。また、このライブが「PLAY MATE」というかの有名大衆男性誌を彷彿とさせる精力的なタイトルを冠されていること。さらにはこのライブの後、新宿ロフトプラスワンで「松永天馬脳病院」と称されたオールナイトイベントが待っていること。それらの事情を全て鼓舞してくれるドリンクである。

ただし、残念ながらぬるい。

 

そう、松永天馬のソロはとても男性的だ。彼の主たる活動拠点であるアーバンギャルドが、少女という万華鏡を通して社会を描きなおすバンドであることと比べると、松永天馬のソロは、一人の男としての松永天馬自身を最大の媒体にした活動である。

そんな男・松永天馬に呼ばれ、生ぬるいTENGAのドリンクを手のひらに収めて、夜の六本木に我々は何しをしに行くのだ。

 

プレイに、行くのだ。

 

恋をしに行く行為をしに行く?

否、プレイを。

 

「僕は、ポルノグラファー」

ライブは「ポルノグラファー」の演奏で幕を開けた。

これから性的存在としての一人の男が晒されていくという宣言のごとく。

 

そしてライブ前半に、新曲のライブタイトルであり新曲の「プレイメイト」も披露された。

「僕は プレイメイト プレイメイト」と繰り返すサビがキャッチーな一曲。

そういえば、「ポルノグラファー」も「プレイメイト」も、サビで「僕は」と己について紹介をする曲だ。

「僕は、ポルノグラファー」

「僕は、プレイメイト」。

そう自称する、自虐的に。

とはいえ自傷ではない、ならば自証か。

バンドメンバー「松永天馬と自殺者たち」の演奏に渦巻かれ、松永天馬は「僕」をためらいひとつなく露わにしていく。

男の独白は、ステージの上で言葉と音と姿を得てひとつの作品という形態に成る。

 

独白。己を語るということは存外難しい。

自分について発信する環境は、インターネットの普及により現在とても充実していると思われる。インターネットという際限なき発言の海に、SNSのアカウントというスマートフォンやパソコンのかたちをした船を得た現代人は、船からいくらでも「僕は」「私は」とつぶやいて彼ら彼女らを広い世界に泳がせることができるのだが、しかし、このつぶやきの航行の果ての着岸先は案外ない。

ただ漂流する僕や私が、時にぶつかり、時に炎上し、大概は見向きもされずに、流れる。

 

インターネットの海を離れてオフラインの陸に上がったところで、己にまつわる困難は当然待っている。陸の上で暮らすには、食い扶持のためだけの仕事だとか、肩書きだとか、経歴だとか、俗にキャラと呼ばれる他人から支持される自分像だとかを必然的に己に纏うことで、各人は居場所を得ることができる。

この仕事や肩書きや経歴やキャラといったものは単なる世渡りのための手段に過ぎず、纏っている手段のその奥に、何かほんものがあるのだ、自分の本質があるのだ、と人はつい信じたくなってしまう。それが、脱いだときに絶望してしまう事態が起きる。脱いだところで、語るべき自分や歌うべき自分なんて何にもないのだ、という絶望に気づく。自分という人間がなにものであるかを、自分で掴むことはとて難しい。

 

ああ、難しい。脱ぐに値する己を持つことは難しい。

そんな時代に、「松永天馬」という一人の「僕」を武器にステージに立つ男がいる。

「松永天馬」を歌うことでステージの向こう側の人間たちと向かい合う男がいる。

こんな時代にごめんね、と「LOVE HARASSMENT」の冒頭で彼は歌うように、己を表現することは、こんな時代にとって挑戦である。

こんな挑戦を観客席の向こうでまざまざと見せつけられることは、一種のプレイだろうか。

 

PLAYだろうか、PRAYだろうか。

私たち観客にとって。

 

 

私たち観客は、平成終年2018年8月11日、松永天馬の「プレイメイト」として六本木の地下に集った人間たちだ。松永天馬はプレイメイトたちを見ているのか見ていないのか、どこに視線を遣っているかは知る由も無いが、プレイメイトが集うフロアに向かって、半ば独白のように、半ば語りかけるかのように、唱えるかのようにこう言う。

 

遊ぶことは、「PLAY」

祈ることは、「PRAY」

音楽を演奏することも「PLAY」

 

ライブハウスの暗く狭い空間で、松永天馬は松永天馬を晒し、観客は晒された松永天馬にまみえる。

けれども、両者は決して交わることはない。

音楽、という摩訶不思議の複雑怪奇の空気の振動が異なる人間同士を惹きつけ合って、同じ場所でひと時を共にすることはできる。だが、どんなに惹きつけられたところで、その身と身が交わることもなければ、心と心が通いあうわけでもない。

ただ、別々の肉体と別々の精神が同じ空間と時間の中にぼつぼつと存在するだけだ。

ぼつぼつと存在する彼らや彼女たちは、愛を吐ける舌の持ち主でも、キスができる唇の持ち主でも、セックスができる肢体の持ち主であるかもしれない。

けれども、それが交わりの条件にはならないのだ。

じっととそばにいて、ぎゅっと感性を掌握してくることはあっても、究極的にはきっときっと交わらない関係。身体と歌だけの関係のように。

だから、きっとプレイメイトたちは祈るしかないのだ。

己の両の手を握りしめて合わせ、己の中で祈るしかない。

何を。

何だっていい。ステージのフロントを占める男の誕生日か、はたまたライブに赴くことで得られる日々の抑圧からの慰めか、もしくは、自意識や自己顕示欲が悉く疎まれる現生で己を保つことの可能性にか。

一人の男を見つめて、祈る。欲望だらけのこの街の地下で。

一緒にPLAYできるけれども、PRAYしかできない我々、プレイメイトは。

 

セットリストはこちら。

 

 ・私がずっとずっと聴きたかった「生転換」は3曲目だった。昨年の松永天馬ソロライブ「Pornographer」で初めて聴いて以来、一撃で好きになり、この日も生転換が聴けるなら、という思いでライブにきたのだが、音響の関係か歌詞が聴き取りにくかったのが少し惜しかった

 

・「天馬の数え歌」で、「天馬の数え歌」の最中、天馬がトイレに駆け込む事案が今年も発生した。アウトロの「妊娠しろよ」の下りで、「尿意を催しました!」と高らかに宣言し、アウトロのコーラスを観客に任せて、天馬は観客席を通ってトイレに駆け込む。うん、既視感があるぞ。去年のポルノグラファーもトイレ行ってた。

天馬がトイレの扉の内側にいる間、「妊娠しろよー」「妊娠しろよー」と律儀に歌い続ける観客たち。そこで高慶さんがアウトロのメロディに乗せて「トイレ長すぎ~」「早く放尿しろよ~」と煽るのも、男の付き合い臭くて楽しかった。

 

・天馬の詩の朗読は、「都市は優しい」のようにピアノをバックにやることが多いが、バンド編成で詩の朗読というのもなかなかに面白かった。

エレキギターは、ピアノと違って人の指弾による直接的な響きを鳴らしにくい。

指で弾いた弦のひと揺れが、ピックアップに拾われ、ケーブルを伝い、エフェクターの回路を潜り、と無数の加工プロセスを挟み、ピッキング以上の音になって出力され、人間の指の能力を超えた音として、高低も色も自在に揺らぎ踊り回る。そんなエレクトリックな音の上に、朗読という肉体からのダイレクトに出力される言葉を乗せる試みは面白かった。

 

ゴーストライターが非常によかった。黒霧島さん、と焼酎みたいな呼ばれ方をしていたジュリエッタ霧島さんのベースがとてもかっこいい。

 

私個人の事情をいうと、4月から仕事の関係で田舎に赴任し、なかなかライブに行けなくなった身であったので、久々のライブハウスの生音は興奮した。

何より、なかなかよその土地に出にくい交通不便の立地の街で仕事中心の生活を送っていると、目にする者耳にする者触れるもの者の考え方全てが仕事と生活中心になってしまいがちだ。そんな窮屈な暮らしからさぁ都市へ、さぁライブハウスへ。そこでやっと精神の自由を見た気がした。仕事にもならなければ生活にも必要ない場所で、己が己を歌う自由は何と尊いのか!と人間賛歌というか、自己愛や自己承認の讃歌を聴いているような心持ちだった。

 

という、或るプレイメイトの日記でした。

こんな薄気味悪いブログをインターネットにぶん投げた私ですが、アーバンギャルド同人誌で「ユーコ」名義でさらに気味の悪い文章を寄稿しておりますので、よろしければよろしくお願いいたします。

togetter.com

 

変わらないことは幸せなのか

田舎のジュブナイルのそよぎの中でする約束が

いつまでも変わらないあなたでいてね、ならば

 

都会のめまぐるしく廻ってやまない針の刻みの上でする約束は

これからも二人で成長していこうね、変わっていこうね、なのだ

 

お互いのことなんんて何一つ信じていないよ

正確には、自分の中にある理想像としての相手なんて何にも信じていない

信じて欲しいのは、互いの可能性なのだ

 

ノスタルジック地方赴任

仕事のためだけに移り住んだ小さな町で、

仕事のためだけに建てられた鉄筋コンクリートのかたまりの中に、

仕事の人間だけで十数戸の小部屋の一角に自分の寝ぐらを置く。

かなわん。

 

オフィスから徒歩5分の場所に建てられた社宅は、働くためだけにとても利便性が高い。

オフィスと社宅との徒歩5分のあいだが日々の大半を占めていて、この5分の景色を飛び出すことは簡単なようで気安くはない。

 

 

駅までは徒歩では遠く、国道沿いへ自転車を走らせたって、生活のための買い物以外に私が立ち寄るようなスポットはない。

駅にたどり着いたところで、かつて私が10年近く暮らしていた町に向かうにも、1時間に2本の電車か1時間に1本の高速バスに、2時間揺られていなければならない。

かつて私が10年暮らした、

友人知人をはじめとする職場以外の人間との関わりと、

生活には不必要だけれども、生活の必需性からはみ出した分だけ人の心にも幅を持たせてくれる美味な飲食や娯楽や娯楽の材料をたくさん売っている店とが、当たり前に詰まっている町。

 

こうやって地方赴任を嘆き出すときは、だいたい職場の人間と過ごす時間が増えたときである。

この春、私は少人数の地方のオフィスに転勤となった。もともといたところも地方都市には変わりないのだが、あまたの企業の本社や、東京本社に対する関西支社がたくさん集まってくるようなタイプの大きめの地方都市だった。その大きめ地方都市の支社からさらに枝分かれした、小さな地元向け営業所が私の今の勤め先だ。

小さな町の少人数の営業所勤務だと、お客様が来た時や行事の打ち上げの飲み会や地元行事が続くと、始業終業のチャイムの音色を越えて、朝から晩まで職場の人間と一緒にいることになる。なにせ帰る場所が一緒なので、仕事をしていても、飲み会の店までの道中も、飲み終えた後の帰路も、四六時中誰かしら職場の人が隣にいる。

 

それでも和気藹々とやっている良い雰囲気のオフィスなのが幸いだが、和気藹々とやるためには、お互いに、職場の空気を平穏無事の凪に保ち、だれかの何かの嵐や地響きにならぬような適切な振る舞いが要求される。

適切な振る舞いの方法の一つが「深く感じない」ことだと私は思う。

誰が何を少々言おうと気にはしない。大切なのは目の前の業務をいかにスムーズにこなすかで、他人の一挙一動に自分の感情を乱されないよう、そもそも他人の一挙一動に深く感じないようになる。

そして酒を飲んだら、とにかく、明るく、愉快に。このメンバーで時間を共にすることは快適であると認識し続けていられるように。

 

だがこの深く感じないモードになると、自分の感受性のようなものごと丸ごと鈍ってしまうような危機を感じる。

仕事中の深く感じないモードには、例えば親しい人間同士の込み入った話に泣いたり笑ったり、好きな音楽に感激してリズムに身動きを投じたり、映画を観てフィルムを流れる展開に次は次はとワクワクしたり、読んだ本の美しい言葉に恍惚としたりといった、些細なことにもいちいち震えてくれる精神の快活さは必要としない。

けれども職場中心の生活は、感じることよりも、考えて働いて周りと調和することにエネルギーを優先的に使うモードで脳を働かせる。

こうやって文章を書くためにmacbookは常に広げていても、書きたいことが何も思いつかない。精神が、接触した物や事に対してパッと何かを反射することがない。

 

何も面白くないのなら早く眠ってしまって、我が眠れる潜在意識の提供でお送りする、奇想天外な夢でも見たい。と、思うときに限って眠れない。そして眠れないから酒を飲む。酔うと少しだけ感じる方の元気が戻ってきて、好きなバンドへの愛をとくとくっとSNSにこぼしてみたり、京阪神のライブハウスが遠くて行きたいライブに行けない事実に今更憤ってみたり、コピー用紙にザクザクっと絵なんて描いてみたりしていたらやっと眠りに落ちる。翌朝、二日酔いはないのだけれど、三十路に突入して前よりちょっとひ弱になった胃はちょっぴり重くて、喉を伝って下りてくるミネラルウォーターの流れが心なしか胃壁にしみる。

 

これではいかん。

私は戦わねばならない。

働くためだけに住んでいる小さな町で、小さなオフィスとほどほどの生活の合間だけをぐるぐると巡りながら、アタマを協調性優先に陥らせている地方赴任生活で、私は戦わなければならない。

自分の心を貧相にさせないための戦いを。

いや、戦いといったって、けして仕事は敵ではない。自分の心を弾ませてくれる人やものへのアクセスは、まずお給金と社会的地位に支えられた生活の安心があってこそだ。戦わなければならない相手は、なんてったって自分の惰性だ。

この地方赴任生活において、私の精神には奪うも奪われるも、殺すも殺されるもない。努めてケアをし続けないと枯れてしまう植物を、よその土地に持っていってどう育て続けるかの試行錯誤、実験に近い。

こう書くと、自分の精神なるものがコウノトリオオサンショウウオISP細胞のように大層なもののように聞こえなくもないが、そんな大層なシロモノでもないのにやたらと手間がかかるというのが人間の大げさなところだ。

知っているようで全然よそ者の町の路地で飲んだ時のこと

この春東京に転勤した友人が、この週末に京都に用事があるというので、

いつも一緒に遊んでいた数名で京都に集まることにした。

暑いときはいたく暑く、寒い時はえらく寒い京都は、連日ニュースになるこの2018年の酷暑のもたらす熱風を、不快極まりなく煮えたぎらせていた。

しかし友情に基づく約束は、そんな暑さも疎ませずに…とは言わない、日本の高温湿潤な気候はそんなに甘くない。私は少なくとも家を出るのが億劫で仕方なかった。けれども、会いたい友人たちというのもまた、例年にない暑さの夏に負けるほど甘くない。かくして私は京都へ向かう。

 

待ち合わせの店は、今日集まる友人の一人が行きたがっていた小洒落たカフェだった。

大きなガラス窓と打ちっ放しのコンクリートの壁に囲まれた空間に、大人数が集って囲むための寸法に造られた大きな木のテーブルとベンチが、澄ました様子で悠々と並べられている。迎え入れてくれるのは、白いシャツと黒いエプロンに身を引き締めた、比較的若くて洗練された風体の店員で、18時の予約に時間通り現れた私は、彼らの爽やかな「いらっしゃいませ」にその日の夜の営業の一番乗りで迎えられた。

18時ジャスト、店には私一人だった。

そしてしばらく、ずっと一人だった。

他のメンバーは全員遅刻だった。

一人は理由不明、一人は京都市バスの渋滞で、一人は鴨川沿いで迷子になっていて。

 

道中を急いでくれているはずの友人たち、「先に飲んでて!」とiPhoneにメッセージが来るが、ここは四条の路地に佇むおしゃれカフェ、複数人のグループの歓声が朗らかに集えるように想定された大きな木目のテーブルの隅に、私は一人でぽつり。テーブルとしても、自分がカウンター席のような一人客のために作られた存在ではないことはよくよく自覚しているだろうから、一人でぼうっと座っているだけの私のような客など招かざる客であろう、心細い気持ちであろう。別の友人からもメッセージが入る。

「先飲んでてな、一人で飲むの勇気いる店やと思うけど 笑」

な、わかってるやろ。わかってるのに言うてるやろ。私の背中側のカウンターにいる店員の姿はこちらからは見えないけれども、振り向いて見遣るわけにもいけない。私の背中のずっと向こうには、18時の4人の予約客のために整えた支度が、なかなか必要にならなくて持て余してる小ぎれいな男性店員たちが、げっ歯類に似た顔をしている地味げな女が待ちぼうけを食らって黙々としている様子に、笑えもせず、かといって無愛想にするわけにもいかずに微妙なポーカーフェイスを気取っているなんて光景が広がっていたら、気まずくて仕方がないんだよ。

しかしながら、時は刻々と流れるが、遅刻理由不明の友人の乗り込んだJRも、夕暮れの混雑に乗り入れる京都市バスも、迷子の本来横に並んでテーブルの周りを満たすべき人間は待てども待てども来る気配はない。こうなっては仕方あるまい。

「すみません、エールビールください」

私は小さな勇気を振り絞って店員の方へ顔を向け、手を挙げた。

待ったところで、友人たちを乗せたJRや、夕暮れの京都市街地の道路渋滞に乗り入れた京都市は、今すぐに彼ら彼女らをここまで運んでくれるわけはない。

そういえば迷子になっている友人は、どうなったのだろう。iPhoneには、鴨川で迷子になっている彼からから「今ここにいるんだけどどこだろう」と鴨川沿いの画像が送られてきていた。その画像というのが、中心に鴨川と両べりに沿う河川敷、傍らには納涼床のせり出した飲食店が立ち並ぶ様、という、あまりにも典型的すぎる鴨川像だった。京都の町を長く続く鴨川沿いの、ある特定の場所だということを示してくれる目印もランドマークも何一つない、どこかで見たことのある、鴨川沿いのどこかでしかなかなかった。彼の現在地について、だいたいどの辺りで、目的地までどのくらいという推理を働かせることができる人間は誰とておらず、誰一人として彼の現在地について「川沿い」以上の発見をなし得なかった。いやさ、あんなに特徴のない鴨川の写真、困るわ。

要するに、こいつもすぐには来ない。だから居た堪れなくなった私は、皆の「先に飲んでて!」 のメッセージに馬鹿正直に甘えた。ほら、あなたたちが来ないから、本当に先に飲んでしまったわよ、とメッセージアプリにビールの画像を送る。

 *

そして18時半を回った頃に、バス渋滞に巻き込まれた二人目が現れ、迷子の三人目も川だけを手がかりになんだかんだで現れた。結局、4人で約束していて、全員が店で数ヶ月ぶりの互いの顔を見ることができたのは19時をすぎてからだった。

まあ、私が時間通りに来たのも、たまたまこの春から田舎に赴任しており、京都までの足が1〜2時間に1本の高速バスであるがため、時間に余裕を持ったバスに乗車できていただけだった。まあ正直、もし私がこんなバスを必要としない、JRの新快速か阪急のマルーンでチャッと京都に駆けつけられる都会に住んでいたら、果たして間に合っていたかどうかわからない、私が3人目か4人目だったかもしれない、そんな自信は有る。

けれども、今日集った4人なら、誰が3人目でも4人目でもきっと笑うしかしないだろう。私たちは、各々のマイペースを崩しすぎず、いい加減さを許容し合うところに友人でいることの愉楽を見出している。そんな人間たちの集まりに、酒が入ればどうなるか。

もっといい加減に許しあって楽しくなる。

* 

4人で岩ガキを頼んで、ならばと白ワインのボトルを一本追加する。ボトルの中で静かに沈む淡い葡萄色の液体が、まごつくことなくどんどん減ってゆくにつれ、夜が私たちの自由さの味方になっていく。気づけば大窓の外で陽は沈み、間接照明の橙が煌々とシェードの下で膨らんでいる。

東京で一人暮らしを始めた話、仕事の関係で手に入る違法薬物の話、メンバーの一人の彼女がいかに良い女性かということ、辛い恋を終えた後、マッチョと新しい恋に落ちかけている話、私の田舎暮らしの悲喜こもごも。各人が好き放題に話を投げ合う。投げ合いながら、一人がぽつりとつぶやく。

「私たち全然お互いの話聞いてへんよな。」

すかさず反論が飛ぶ。

「聞いてるよ」「意外と覚えてるよ、下世話な話なんて特に」

「私らの会話はキャッチボールをしてるわけじゃない。みんなが投げたボールを特に拾おうとはせず、飛んでるのを見ているだけや。」

そういえば、コミュニケーションはよくキャッチボールに喩えられるが、別々の人間同士が、いつだってボールを的確にキャッチし合えることなんてないと思う。自分の放ったことや自分の存在を、他人にしかとキャッチして受け止めてもらえるならば、安心なことこの上ないだろう。

しかし、人と一緒にいることは、常にキャッチボールに最適な状況が整っているわけではない。投げる側の球の速さや大きさ、受け止める側のコンディション、キャッチボールをする場所の芝生や天気の具合は流動的だ。いつだってバッチリとボールのやりとりができる相手と状況なんて、どんなに仲が良くたってありえないと思う。

それに、どうせ仲良くするのなら、キャッチボール以外の遊びもした方が楽しい。ふざけた球やトリッキーな球、とにかく「人を傷つけない」というルール以外は無法地帯に近い状態で好き放題に球を投げて、投げられた方は拾ってみたり、蹴ってみたり、ヘディングしてみたり、取りこぼしてみたり、転がしてみたり。

他人と付き合うこということは、完璧なキャッチボールを目指す方法だけではなく、キャッチだけではないボール遊びをどこまで楽しくやれるかという方法も有るのだ。特に仕事の付き合いなんかは、前者の方法を追求する方向に傾きがちなので、後者の楽しい方のやり方って、当たり前にできているようでできていない日々も多いのだ。

そして、後者の楽しい方の方法だって、ある意味では、キャッチボールが成立しているとも言えるかもしれない。無節操に飛び交うボールを通して、互いの存在をきちんとキャッチできているのなら。

切り分けたカルツォーネから、チーズの絡まった野菜や肉がトロトロと垂れていくのをフォークで掬いながら飲んでいたところ、メンバーの一人の、マッチョと新しい恋に落ちかけた話が、野球ボールサイズの話題だったところ、残りのメンバーの好奇心と興味に膨らまされ、気づけばソフトバレーボールサイズぐらいになっていた。4つのワイングラスが空になったことを確かめて、近くに知り合いのバーがあるから2軒目へ、という号令がかかる。

こうしてほろ酔いの4人は、熱気立ち込める夜の京都の路地に、アルコールの熱に暑苦しくなった4者4様の身を紛れ込ませてゆく。酒と久々に会う友人との会話とにすっかり惚けた脳を、黒髪の女主人が待っているバーカウンターにひとまず落ち着かせる。

タンカレー・No.10をロックで頼んだら、さあ、再開しようマッチョの話、乾杯!

すると乾杯から1分で、「私、相手にセーヨクのバケモノって言われてさぁ〜」と妙齢女子の悩みにしてはあまりにも力強すぎるぼやきがぶち込まれ、全員で彼女の力強い肉体を大笑いで讃えた。

2杯目にチンザノ・ロッソをストレートで頼んだあたりから、私は絵に描いたような酔っ払いらしく、周りのことがだんだん見えなくなり(見るのが面倒になり)、頭に湧いてくる物事を勢いに任せて流出させ始めた。金髪で仕事はできるはずなのにどうしてダメなんだ、世間でお堅い仕事と言われている業界で、お堅いライフが当たり前の人間ばかりだからこそ、私がお堅くなくなるしかない!こうなったら小説を書いてやる、私は物書きになってやる、今年こそ書くぞ宣言だ。とっても気持ち悪いバンドが好きで、えっマスターご存知ですか、みんなごめんなキモいバンド好きやねんな!

けれども、こうやって酒に任せて流出する私のくだらない憤りや、あまり他人に言ってこなかった趣味に対して、否定するナイフはどこからも飛んでこない。

だって、キャッチするためのボールなんて投げていないから。ボールを投げることそのものを楽しんでいて、ゆえに、他人の投げてきたボールにOKもNGも出さない。

ボールを眺めてちょっと美味い酒が飲めたら万々歳。

そうやって、全くの他人が全くの別人のことを知ってゆく。知ろうともしていなかったことを、アルコールに加勢されて勝手に発信するものだから、勝手に知ってしまう。知ってしまいながら、そこも面白いね、と受け入れていく。かくして全くの別人同士の私たちは、互いに親密を覚えてゆく。

そして宴は続き、繰り返される。

 

そういえばこの日は京都で、京都とは、知っているけれどもよその街だ。

長年兵庫で暮らしていた私にとって、京都は用事があれば行くけれども、住んだこともなければ、そこの人間と何か関係を交わしたりということもない、深く関わることのない街だった。顔見知りの知人のような場所だ。

けれども、酔っ払った私たちは、顔見知りの町の路地裏で、とても自由になっていく。頬をアルコール流れる血の色に染めて、惚けて河原町の駅を目指す私たちに、当たり前みたいに通過されていく。

改札の前で、京都に宿をとった友人に手を振り、残りの3人は十三行きの特急に乗り込む。

そうやって、全くのよそ者の人間が、全くのよそ者の街に、少しばかり身を預ける。私たちは決してこの街の人間ではないけれど、私たちは確かにこの街の夜の一員だった。友達4人の他愛もないけれども貴く愉快な一編が、アルコールに加勢されてその夜も編まれたものだから、顔見知りの街に少しだけ愛着を抱いてしまう。

そしてあとは酔いを覚まして、眠るだけ。

恋愛展開拒否シンドローム

転勤し、職場から近い社宅をあてがわれたので、

ちょうどNHKの朝ドラを見終えた頃に家を出ると丁度いい出勤時刻になる。

というわけで、「半分、青い」も何となくて見ているのだが、

このドラマ、観たいシーズンと観たくないシーズンに分かれる。

 

オフィス・ティンカーベルにいるあたりの頃はいつも楽しみに見ていた。

井川遥の丸メガネにPINK HOUSEの出で立ちのあまりの魅力に惹きつけられたことも大きいが、

何よりも、このころの鈴愛が、「マンガ」という一つの目標に向かって、鈴愛が秋風先生という歪んだクールさを持つ素晴らしい先生の元、ユーコやボクテという仲間を得てひた走る姿を毎日そっとブラウン管の向こうから覗くのが楽しかった。

マンガを諦めた時は、一緒に悲しかった。こんな日が来ないわけはないし、こんな日が来てしまうのだと。30代も手前になって、これだけがあれば、とひたむきに打ち込んできたものに挫折して、これから自分は何を目指して、どうやって自分の食い扶持や社会の中での立ち位置を立て直していけばいいんだろう。そんな不安は途方もないものだろう。

けれども、鈴愛ならきっと何とかなるさ、という期待をする。なぜならこのドラマがまず、片耳の失聴に対して彼女が放った「半分、青い」という、暗い現実を明るく解釈し直してしまう言葉をタイトルに冠しているからだ。あの鈴愛なら、大丈夫だろう、この挫折も明るく打開してくれるのだろう、と。

 

しかし、次週の彼女に用意されていたのが新しい男との出会いだったことで、私は8時になるとテレビのチャンネルを変えるか、チャンネルの消音ボタンを押すかして、朝の身支度を整えるようになった。

それは、恋愛展開が苦手だ、恋愛によって未来が開けるなんて期待はとてもしたくないという全くの個人的感情によるものだった。そして、恋愛によって未来が開けるという期待は、鈴愛たちが描いていた少女漫画の世界において絶対に近い価値観だ。

年若い少女たちの娯楽として用意されている少女漫画の王道は、一人の少女が異性との恋愛を通して、自己の価値を見出したり、活路を開いていくというストーリー展開が王道だ。少女にとっての、女にとっての希望は、恋愛だ。こんなメッセージが、幼い少女やティーン向けのコミック誌に、少女たちの娯楽のための媒体に、ふんだんに詰め込まれている。

 

けれども、恋愛はちっとも大人を救ってくれない。

漫画のように素晴らしいパートナーが運命的に登場するなんてことはあり得ない。

登場したって、現実の私たちには、漫画のハッピーエンドの先にある、

揉め事や、日々のすれ違いや、どうにもならないことや、別れの経験の可能性が充ちている。

ハッピーエンドを目指して、愛されるための努力や競争は女たちを摩耗させる。

恋愛は可愛いことが重要とされるけれど、可愛くなれなかった場合や、可愛いとされる価値観にうまく馴染めなかった時、世の中における自分の身の置き所に戸惑ってしまう。

だいたい、恋なんてしなくても仕事はできてしまう、飯を食っていけてしまう。

婚活なんてものは何だ、多くの求婚者たちを沼にはめているではないか。

 

少女漫画のセオリーは簡単に大人を裏切る。

女にとっての希望は恋愛、ではない。

きっと女にとっての希望としての恋愛ロマンスを描いてきた鈴愛が、

少女漫画を諦めた先の道を、恋愛に託してしまうことが私は怖いのだと思う。

恋愛のような、他人に依存してもたらされる幸福ではなくて、

仕事、鈴愛でいえば漫画のような、自分を軸にして掴み取っていく幸福の方を信じさせてほしいと、身勝手に願ってしまうのだ。

少女漫画的価値観にどっぷり浸かった上でその裏切りを知ったからこそ、傷心で始めた新しいアルバイト先で素敵な男性と出会って・・・なんて、まるで少女漫画みたいなドラマの展開に、警戒してしまうのだ。

そして私は8時になるとテレビのリモコンに必ず手をかける。

 

ドラマの感想など、本当に人それぞれで、勝手なものだ。

こうやって視聴者が個々の勝手をあーだこーだと言いながら、ドラマの1シーズンは過ぎてゆくのだろう。

あーだこーだ言ってるうちに、永野芽郁ちゃんもとても魅力的だし、また観たいシーズンが来れば嬉しいなあ。

アウトドア短パンは最高の部屋着〜patagonia バギーズショーツ〜

四月に転勤したのだが、転勤先の事務所はスポーツや野外活動が好きな人が多い。

インドアな私も「新しい職場の和」を重視した結果、否応なしに燦々とした太陽と、陽射しを受けて照り返す大地の合間を己の身を翻して躍動するタイプの日陰者には眩しすぎるアクティビティに巻き込まれていった。

私にとってのスポーツや野外活動がどれほどに眩しすぎるかというと、SNSで職場のスポーツ大会に参加することになったことを書き込むと、友人たちから「お前がスポーツとか大丈夫?」「今度慰労会しような」と次々に労わりのメッセージが届くレベル。

 

さて、何せスポーツや野外活動との縁を極力避けてきた日陰者は、「動きやすい活動的な装備」というものを何ら所持していない。

ジャージ?ないない。スニーカー?すぐ足痛くなるコンバース一足のみ。Tシャツはかろじて薄暗いライブハウスやコンサートホールで買ったライブTが。

押入れのワードローブたちがそう訴えかける中、今夏、日陰者は職場の面々とビーチバレーボール大会に行くことが決定。トップスは職場でお揃いで作ったユニフォームが支給されたのだが、さてボトムは何を履くべきか。

そこで見つけたのが、patagoniaのバギーズショーツだった。水陸旅用とあるので、海辺でも大丈夫。ポケットも付いていて便利そう。デザインも可愛い。これの下にレギンスを履けば、日陰者も見た目だけは陽射しの下の生き物っぽくなれそうだぞ!

 

 

(パタゴニア) patagonia W's Baggies Shorts 57057 SHKP Shock Pink//Pink S

(パタゴニア) patagonia W's Baggies Shorts 57057 SHKP Shock Pink//Pink S

 

 

 

てなわけで、楽天市場でポチッとな。リンク貼ったのはamazonですが。

店舗?行かないよインドアだし。アウトドアブランドのショップとか、人生の陽気な喜びに肌を健康的な褐色に焼いたような爽やかピープルとか、幼子と夫婦の全日本理想の家族代表みたいなファミリーとかが跋扈してそうで怖いもん。

 

ただ、通販だとサイズにがわかりにくく、レビューでは「一般的なレディースサイズよりサイズが大きめなので、普段のサイズよりも気持ち1サイズ小さめがよい」という投稿が多い。私は身長が140cm台で骨格もやや細身の小柄なので、ジュニアのLを買った。あとジュニアの方がちょっと安い。

ジュニアのLが、感触としてはユニクロのキッズ140ぐらいかな?という感じ。ウエストなら56、3号〜5号のボトムを履いている私にはきついということはなく、腰回り自体はちょうどいいといえばいいのだけれど、フィット感がありすぎるのと丈が短すぎて、大人として履くのならもう1サイズ大きくても良かったかな、と思う。

【楽天市場】【2018春夏】Patagonia/パタゴニア <キッズ> ガールズ・バギーズ・ショーツ 67066:MATSUYA 楽天市場店

 

 
ただ、ビーチバレーならこの下にレギンスを履けばまぁ30歳でも許容範囲なので、使うことにした。

 

もしくはボーイズの方が丈が長そうなのでこっちの方が良かったのかもな

 

 

数日後、自宅に届いたので早速試着。自室で一人、アウトドアブランドのバギーズショーツに両の脚を通した私は、そのままベッドに倒れ込んだ。

 

この短パン、部屋着として超楽チン!!!快適!!

 

薄手で履き心地は抜群、動いてもじっとしていても快適。アウトドアグッズなので暑い部屋で寝汗をかいても気にならない。さっきサイズ感の件で三十路には短すぎるかな…なんて言ったけど、部屋着ならこれで無問題。

いやあ、なんていい短パンなんだ、バギーズショーツ。すばらしい部屋着だバギーズショーツ。

こうして日陰者は、屋外でみんなでワイワイと楽しむ時間のために開発されたアウトドアグッズにも、自室で一人で黙々と快適に過ごすためのグッズとしての価値を発見する。

そういえばこの短パン水陸両用とあるが、私にとっちゃ陰陽両用だよ。家でこもるのにもいいし、でもビーチバレーにも履いていける。

 

というわけで、

「基本はインドアで根暗だけど、陰鬱で社会不適合な気持ちをぶちまけてくれるロックンロールは好きなのでフェスは行く」「基本はインドアで根暗だけど、仕事や子供会の付き添いやらでどうしても海に行かなくちゃ」「基本はインドアで根暗だけど、私をブスといった奴らを見返したくて家でこっそりダイエットのための筋トレや運動をしている」といった、日陰者が屋外に出たり動き回らねば ばならない事情がある際の選択肢として、ありです、パタゴニア・バギーズ・ショーツ。たとえ外で一度しか使わなかったとしても、夏の部屋着として、とてもリラックスフィットしてれるから。