グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

退屈な大人の遅すぎるノスタルジー、こんなことを言い始めたらとうとうBBAだ

理屈抜きに何かを感じる、ということが年々難しくなっていく。

理屈抜きに聴いた音楽や観た芸術作品に泣きたくなったり、理屈抜きに歌を歌おうと試みてみたり、理屈抜きに小説を書きたいという衝動に駆られたり、理屈抜きにその場を楽しむことが難しくなっている。

なお、「楽しむ」というシチュエーションの中でも他人と一緒にいる時間については、生来の内向的な気質と、己の振る舞いが他人に快適さや好感を与えている自信が大抵持てていないゆえ、特に苦手意識をぬぐいきれない。楽しもうという意思はあるのだが、他人の楽しみを邪魔していないかが心配になってしまいすぎる。そんなときは大抵、両親の遺伝子からきちんと私の遺伝子にコピーされた肝臓の丈夫さを頼みにして、アルコールに同席してもらう。日頃の他者との関わりに対する自信のなさを「まぁ飲んでるからええわ、酒飲みのたわごとにしといてもらって許してな」と具体的に誰にお願いするでもなく、何よりも自分自身に対してそう酒を片手に頭を下げ免罪を乞いながら、己の振る舞いや発言に対する意識の集中を解除している。

 

 

「酒飲みのせいにして許してな」もそうだけれど、何かのせいにしないと楽しめないことが増えている。

正確には、何か根拠がないと楽しんではならない気がする。

物事に対して意欲を得たり感動したりることに理由がないと不安だし、物事に対して発生する喜怒哀楽の感情が、果たして妥当なものなのかを審査したくなってしまう。こんなことが楽しくていいんだろうか、長いようで短くしかも数年精神を病んでいた時期がありちょっと損している人生、もっと他に何かすべきことがあるんじゃないだろうか。

では、もっとすべきこと、とは何なのか。自分が選び取る行動に、価値の高い低いの値踏みをするとして、基準はなんだ。いったい私は何を目指して今後の人生を構築していきたいのか。どんな風に生きれば、自分に安心していられるのか。

そこでふっと視界が霞んでくる。脳のどこかにある思考の働きが作動する箇所を、面倒や難解や結論の不確かさといった予感が、霜が降ったかのようにように覆っていく。要するに、考える気が無くなる。はて、コーヒーを淹れるための湯でも沸かすか。

 

 

きっとこんな事態は、公務員という法令解釈・内々の運用および組織の空気という、絶対であるようで曖昧な理屈を駆使する仕事をもう5年も続けてしまえたせいもあるのかもしれない。そして5年目にして役職付きの立場になった分、口にする理屈に対する責任も重くなった。私が新進気鋭のガールズロックバンドのギターボーカルだったならば、つまらない大人になっちまったとディストーションを踏んで歌うだろう。いっそファズギターぐらい鳴らしてみたいが私の声質には適さない。でも、残念ながら私は新進気鋭のガールズロックバンドのギターボーカルではなく、自意識と中途半端な芸術志向をこじらせたただの三十路のしがない勤め人だから心配無用。

 

そういえば昔は、私に備わっている「理屈のなさ」を咎められたり、不思議がられたりしていた。

理屈なく湧いてくる絵や言葉を時に面白がられては、時に「だからお前は社会でやっていけないんだ、甘えるな」と時に非難された。

そして実際、就職に失敗したり、勤めた会社に馴染めず辞めたりという事態が20代に連なっていき、そこで私は社会に適応できない己の原因の一つを、社会の理屈に対する理解不足に求めた。自分の感じるものが、社会の理屈とうまくマッチしなくて、生きづらい。

そこからひたすら私は、世の中の健全に働き生きる人々の理屈を解しそこに与しようとした。その理屈は、主に損得勘定や、効率や、生産性、精神性の強さ、向上心、長いものに巻かれる心地よさといったもので構成されていて、当時の私にとっては、身につけるにはゴワゴワとしすぎていて着心地の悪いものだった。私という人間の核にふんわりと詰まっていた、思いつきだとか気ままさだとか幼い正義感だとか美しいものへの感動は、稼げない、就職市場においては価値がないと、生活の糧を得るためには不適当という査定ばかりになる。けれども、このゴワゴワを着ないと自分を守れないんだということはわかっていた。食っていけない、生活できない。どうか、このゴワゴワが似合う人間になりたい、と私は願った。

そして公務員試験を受けた。公務員は、よほどのコミュ障でなければ、テストの結果さえ出せば社会不適合者でも社会適合者の土俵にデビューできるチャンスだ。民間企業の転職市場のように前職での経験や即戦力かといったことはさほど問われない。

そして私は無事に公務員になり、真面目に働き安定して暮らせるよう、適応に努めた。時々酒を飲みながら半泣きで「くそったれ」という夜もありつつ、まあそこそこ成功した。転職後にちょっとした別れもあったショックから、ショックを埋めようとあちこちに出歩き、普段出会わないいろんな人にも会うようにもした。世の中には色々な種類の人間や価値観や暮らし方のパターンがあることを知ることで、少しづつ自分を客観視できるようになっていった。仕事や仕事以外で出会う人たちの振る舞いを参考にし、真似できること・真似してはいけないことを探す。他人を鏡にして、自分という人間はこんな風に他人の目に映るようになればうまくいくんじゃないかな?という姿を探す。そうこうしているうちに、あのゴワゴワは、無理して外側にまとうものではなく、いつも当たり前に身につけているものになっていった。

 

 

そして、時々唐突にさみしくなるのだった。

出来栄えはともかく、世の中になじむ自分をコーディネートすることができて、定職について、自分の稼ぎで自分を食わせられるようになって、随分自分に安心して暮らせるようになった。

けれども、自分の好奇心や突発的な感覚より適応を優先する癖が、前者を置いてけぼりにする。置いていかれたくないのなら、理屈を通して、それが通れば表に出してあげるわよ、といった交渉が私の精神の中で発生する。

 

退屈な大人になったな、と新進気鋭のガールズロックバンドのギターボーカルを夢想しながら思う。けれどもそこに反発しようともせず、きっとこれでいいのだと納得している。納得しているといいつつ、置いていってしまったものたちを惜しんでしまう愚痴っぽさが、老けたなと思う。