グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

美術館で少しばかりくらくらしてしまうときの話

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美術館に一歩足を踏み入れる。

著名な建築家が丹念に柱や壁や床やのすがたかたちを計算して組み上げて、

人間が人の手で作り上げた作品たちが、観られるための場を用意する静かな箱。

今日は19世紀末ウィーンのグラフィック・デザインの特別展をやっていた。

小さな四角い紙の上に、滑らかに引かれる線、あてがわれる色、眼を踊らせるモチーフとが巧みに配置され、完成された一枚一枚にいちいち私の心は魅了される。今日の土曜の休日も、素晴らしい作品たちの連続を愉しむことができ、幸福な気持ちに満たされた。


満たされた途端、幸福感を詰め込んでぱんぱんに膨らんだ精神の袋の皮に、ぴっとひとすじの緊張が張り詰める。


美術館の展示室で一人絵を観ていると、私はこれからもきっとひとりなのだ、という予感に襲われる。


素晴らしい絵画や彫刻や映画や小説といった作品に触れたことで、心が刺激されてときめきを覚えるとき、私は自分が生きていることに少し肯定的になれる。

生きていくということは難儀なことも多いし、自分自身の世渡りに対する要領の悪さや不器用さにはいつになっても辟易する。自分と、自分以外の他人との見えているビジョンの些細なすれ違いに傷つきたくなる日も多い。

でも、他人や世の中に擦り切れてしまいそうになっても、人間が作り上げた作品たちに対して私は心から喜ぶことができる。こんな幸福を味わえるのならば、生きていることも悪くないと思えてくる。

けれども、美術館の絵画の前で一枚の絵の放つ美しさやエネルギーにどんなに心を震わせたとのろで、この震えや感激を他人と共有することはできない。そこにある感動は、私だけのものだ。一枚の絵に対する感動について、他人に表明することはできるだろう。たとえばこうやって文章にするといった方法で。

でも、他人に感動した事態を表明することはできても、感動そのものは他人と共有はできない。私はこんなことを感じて、こんなにも嬉しくなったり切なくなったりしたのだ、ということをいくら伝えたところで、同じように他人が感じることはない。そもそも、共感など求めていない。私が、誰の存在も関係なく、ただ展示室の出口を満足してくぐって帰る事ができるならそれでいい。


ひとりだな、と思う。誰にも与えられず、誰とも共有し得ない喜びを、自分一人のためだけに一人で火をつけて一人で温めるだけ。

美しいものに感動する気持ちは、孤独の証拠だ。


そしてこの孤独に私はこれからもきっと縋るのだろう。少しばかり生きづらい人間や日々のことを、明るく捉え直すために。そしてこの孤独に私は不安を覚えるのだろう。一人ではなく、誰か他人と一緒に一緒に味わうことのできる幸せから遠いところにいる自分は、だからこそ他者ではなく他者の作った作品に対してだけ素直で居られるのだ。


くらくらしてくる。


なにせこの幸福な孤独は、儚い。だって、感動というのは発生した一瞬。花火みたいにぱっと火を放って大きく咲く。けれど咲いて自分の内側に放たれた後は、花火の火薬の匂いみたいにじんわりと辺りに残り、やがて祭りが終わり家に帰り着く頃にはすっかり鎮まってしまうものだから。


自分の内面にしか発生しない火花は、己と他者とのすれ違いによって欠けてしまう頼りない自分に喜びを教え、慰めてはくれる。けれど、ひとりでしか味わえない幸福にばかり傾いてばかりの私自身が、果たしてこれでいいのかどうかについては知る由も無い。


そうやって、幸福な孤独に笑ったり泣いたり、強い気持ちになったり寂しさを覚えたりするからこそ、作者たちが、かれらの意思や感情や生命力を注いで作り上げた作品というものが美しくて仕方ないのかもしれない。

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