グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

ノスタルジック地方赴任

仕事のためだけに移り住んだ小さな町で、

仕事のためだけに建てられた鉄筋コンクリートのかたまりの中に、

仕事の人間だけで十数戸の小部屋の一角に自分の寝ぐらを置く。

かなわん。

 

オフィスから徒歩5分の場所に建てられた社宅は、働くためだけにとても利便性が高い。

オフィスと社宅との徒歩5分のあいだが日々の大半を占めていて、この5分の景色を飛び出すことは簡単なようで気安くはない。

 

 

駅までは徒歩では遠く、国道沿いへ自転車を走らせたって、生活のための買い物以外に私が立ち寄るようなスポットはない。

駅にたどり着いたところで、かつて私が10年近く暮らしていた町に向かうにも、1時間に2本の電車か1時間に1本の高速バスに、2時間揺られていなければならない。

かつて私が10年暮らした、

友人知人をはじめとする職場以外の人間との関わりと、

生活には不必要だけれども、生活の必需性からはみ出した分だけ人の心にも幅を持たせてくれる美味な飲食や娯楽や娯楽の材料をたくさん売っている店とが、当たり前に詰まっている町。

 

こうやって地方赴任を嘆き出すときは、だいたい職場の人間と過ごす時間が増えたときである。

この春、私は少人数の地方のオフィスに転勤となった。もともといたところも地方都市には変わりないのだが、あまたの企業の本社や、東京本社に対する関西支社がたくさん集まってくるようなタイプの大きめの地方都市だった。その大きめ地方都市の支社からさらに枝分かれした、小さな地元向け営業所が私の今の勤め先だ。

小さな町の少人数の営業所勤務だと、お客様が来た時や行事の打ち上げの飲み会や地元行事が続くと、始業終業のチャイムの音色を越えて、朝から晩まで職場の人間と一緒にいることになる。なにせ帰る場所が一緒なので、仕事をしていても、飲み会の店までの道中も、飲み終えた後の帰路も、四六時中誰かしら職場の人が隣にいる。

 

それでも和気藹々とやっている良い雰囲気のオフィスなのが幸いだが、和気藹々とやるためには、お互いに、職場の空気を平穏無事の凪に保ち、だれかの何かの嵐や地響きにならぬような適切な振る舞いが要求される。

適切な振る舞いの方法の一つが「深く感じない」ことだと私は思う。

誰が何を少々言おうと気にはしない。大切なのは目の前の業務をいかにスムーズにこなすかで、他人の一挙一動に自分の感情を乱されないよう、そもそも他人の一挙一動に深く感じないようになる。

そして酒を飲んだら、とにかく、明るく、愉快に。このメンバーで時間を共にすることは快適であると認識し続けていられるように。

 

だがこの深く感じないモードになると、自分の感受性のようなものごと丸ごと鈍ってしまうような危機を感じる。

仕事中の深く感じないモードには、例えば親しい人間同士の込み入った話に泣いたり笑ったり、好きな音楽に感激してリズムに身動きを投じたり、映画を観てフィルムを流れる展開に次は次はとワクワクしたり、読んだ本の美しい言葉に恍惚としたりといった、些細なことにもいちいち震えてくれる精神の快活さは必要としない。

けれども職場中心の生活は、感じることよりも、考えて働いて周りと調和することにエネルギーを優先的に使うモードで脳を働かせる。

こうやって文章を書くためにmacbookは常に広げていても、書きたいことが何も思いつかない。精神が、接触した物や事に対してパッと何かを反射することがない。

 

何も面白くないのなら早く眠ってしまって、我が眠れる潜在意識の提供でお送りする、奇想天外な夢でも見たい。と、思うときに限って眠れない。そして眠れないから酒を飲む。酔うと少しだけ感じる方の元気が戻ってきて、好きなバンドへの愛をとくとくっとSNSにこぼしてみたり、京阪神のライブハウスが遠くて行きたいライブに行けない事実に今更憤ってみたり、コピー用紙にザクザクっと絵なんて描いてみたりしていたらやっと眠りに落ちる。翌朝、二日酔いはないのだけれど、三十路に突入して前よりちょっとひ弱になった胃はちょっぴり重くて、喉を伝って下りてくるミネラルウォーターの流れが心なしか胃壁にしみる。

 

これではいかん。

私は戦わねばならない。

働くためだけに住んでいる小さな町で、小さなオフィスとほどほどの生活の合間だけをぐるぐると巡りながら、アタマを協調性優先に陥らせている地方赴任生活で、私は戦わなければならない。

自分の心を貧相にさせないための戦いを。

いや、戦いといったって、けして仕事は敵ではない。自分の心を弾ませてくれる人やものへのアクセスは、まずお給金と社会的地位に支えられた生活の安心があってこそだ。戦わなければならない相手は、なんてったって自分の惰性だ。

この地方赴任生活において、私の精神には奪うも奪われるも、殺すも殺されるもない。努めてケアをし続けないと枯れてしまう植物を、よその土地に持っていってどう育て続けるかの試行錯誤、実験に近い。

こう書くと、自分の精神なるものがコウノトリオオサンショウウオISP細胞のように大層なもののように聞こえなくもないが、そんな大層なシロモノでもないのにやたらと手間がかかるというのが人間の大げさなところだ。