グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

松永天馬殺人事件 20190209神戸元町

あの事件は何せ「映画」なので、上映できる場所さえあればどこでだって繰り返し発生してしまう。松永天馬は東京・大阪・京都…日本のあちこちで映画の中で何度も殺された。その都度、観客の心中に何かが起きたり、起きなかったり。

一つ言えることは、どこで上映されようと、どこで殺されようと、彼は気持ち悪い。100分の尺に整えられた事件の結末は修正不可能なはずであるから、あとのことは事件を目撃する側の状況に委ねられている。何度観たってハートフルもお涙もクソもない気持ち悪い事件には変わりない。変わることは、ない。はずである、本来。

 

そしてこの気持ち悪い映画が、神戸・元町にやってきた。「松永天馬殺人事件」の上映だけでなく、音楽談義や映画談義といった松永天馬のトークショーイベントも一緒に引っさげて。

私はかつて神戸の元町に住んでおり、「松永天馬殺人事件」が上映される元町映画館やトークショーの会場のある界隈は馴染みの場所だった。神戸大丸前の交差点を渡って、映画館のある元町商店街のアーケードの下を、何度飲んで帰っちゃほろ酔いで歩いたか。

そんな何時もの道すがらでふと目に止まった、「松永天馬殺人事件」のあのモノクロのフライヤーが積まれている姿よ。私はいささか困惑した。あの気持ち悪い事件が、とうとうこんなところにまで。松永天馬氏の楽曲「LOVE HARASSMENT」の歌い出しじゃないけれど、「こんなところでごめんね」じゃないですよ、ほんまに。

www.youtube.com

 

というわけで、折角なので関連イベントのある2月9日に、私はいそいそと元町へ顔を出した。映画の上映は夜からだったので、まずはお昼下がりに神戸大丸そばの「音楽図書室:フォノテーク」で、安井麻人氏との音楽談義から。音楽談義が終われば、大丸前交差点を渡って商店街のアーケードの下を真っ直ぐに奥へと進み、ラジオ番組「シネマルネサンス」のMC陣の方々との映画談義へ、元町映画館へ。

https://ameblo.jp/zeneitoshi/entry-12432472396.html

どちらも如何せん良かったのだが、この話を書いていてはいつまでたってもこのブログ一綴りが終わらないので、また後で。しかし、昼下がりに松永天馬と音楽のトークショー、夕暮れに松永天馬と映画のトークショー、と半日ずっと松永天馬を追い続ける休日というのもなかなかのものである。神戸の1日ですらこんなにも濃い1日なのに、東京のような、たくさんの活動現場に赴く機会があり、そこに都度参加されているアーバンギャルド及び松永天馬ファンの皆さんの心身の体力は実に凄いと思う。特に心。それを考えると、かのファンたちは果たして心が強いのか弱いのか分からない。

やがては夜は更け、私にとって三度目の「松永天馬殺人事件」の幕が上がった。

やっぱり、何度見たって、彼は気持ち悪い。

きっとこの映画に満ちる不愉快な湿りは、彼自身の自意識が彼方此方にぶつかって反射して飛びっ散った飛沫から漂うものなのだろうと思う。暗室でたった一つ手放すこともできずにずっとそこに在って、懊悩に怒張する、誰の手にもどうにもできない類の器官を常に満たすそれは、まさかの映画館の中の100分間の悪夢に幸か不幸か出番を得てしまった。

もう3度も見たから分かっていたことだったけれども、やっぱり気持ち悪いこの事件。だがこの日はもう一つ、予想だにしていかった”事件”が待っていた。事件を起こしたのは、上映中のあるシーンで、ある意味この日のベストアクトとも呼ぶべきナイスなリアクションを取られた、とある観客の方。そして、同時上映作品の舞台挨拶に控えていた、キュートな子役のお嬢さんだった。

 

この日の同時上映は「ゆかちゃんの愛した時代」。平成生まれ・平成育ちの関西人の2人の男女が、終わりゆく平成のポップで懐かしく愛おしいカルチャーたちを、軽妙な関西弁の掛け合いで追走してゆきながら、今を、明日を生きていく物語だ。どうしても関西で暮らして来たのが長いせいか、調子の良い関西弁の掛け合いというのにはつい親しみを覚えてしまい、初めて見る映画に対する人見知りのような強張りの気持ちもほぐれてしまう。また、昭和の終盤生まれの私は、ゆかちゃんよりは少し年上だけど、平成に育ったことは変わりはない。だからあの平成を、子供の目で見て触れて育った平成、まだレトロにもなり切れていなけれども確実に新しさからは遠ざかっていく時代を、映画のかたちで一緒に愛でることができて、とても楽しかった。

さて、この映画の舞台挨拶に、主人公の子供時代を演じた通称・ちびゆかちゃんが監督と一緒に登壇する。照れ臭そうだけれども堂々と舞台挨拶をこなすちびゆかちゃん。

ちびゆかちゃんが無事に挨拶を終えると、次は松永天馬の舞台挨拶へ。ここで進行の映画館スタッフの采配が冴え、先に挨拶を終えたちびゆかちゃんと松永天馬とのちょっとしたコラボレーショントークの流れとなった。どんな流れだったかは、あの夜あの場にいた方が微笑ましく思い出せばよく、インターネットブログに仔細に書き残すのは野暮な気もするので省略する。

(元町映画館さんの公式イベントレポートで、この夜のことについて記事があります。 

神戸・元町商店街のミニシアター『元町映画館』| イベントレポート |

ただ、松永天馬は突然の展開に困惑していた。観客やスタッフはニヤニヤとしていた。ちびゆかちゃんは、壇上で対峙することとなった松永天馬に、何も言えずにじっとひいていた。松永氏はちびゆかちゃんに努めて優しく語りかけようとするのだが、しかしその優しさに彼独特の斜め上にひん曲がったテンションの不純物がかき混ざって、結局生ぬるく気持ち悪いのだ。

最後に映画館スタッフがちびゆかちゃんに、今日実際天馬さんに会ってどうだった?と訪ねた。ちびゆかちゃんは、終始照れだったり天馬おじさんへの困惑だったりで愛らしくもややまごついているような様子もあったのだが、こればかりはしっかりとした関西弁で答えた。

「…テンション高い人やなって思いました。」 

観客席にどっと笑い声が満ちる。あんな気持ち悪い映画を観た後とは思えないぐらい、和やかな時間が流れていた。

 

…とここでふと驚いた。「松永天馬殺人事件」で客が笑うなんてことは、大阪や京都ではなかった事態だったからだ。

実は舞台挨拶の前のエンドロールの直後から、館内は笑い声に満ちていた。こんなこと、大阪や京都にはなかったのだ。大阪や京都の上映後というのは、誰も何も口にはしないが「まずいものを観てしまった」「なんと感想を述べれば良いのかわからない」とでも言わんばかりの、松永天馬お得意の「ご愁傷様でした」というフレーズがしっくりくるような空気が漂っていた。

だが、神戸のこの日の上映は違った。とある観客の方やちびゆかちゃんといったベストアクトが功を奏したことも大きいのだろうが、それにしても同じ映画を上映したはずなのに、ラストからの展開に対する客のリアクションがてんで違ったのだ。

なぜこのような事態が起きたのか。詳しくは重大なネタバレになってしまうために書けず、これは映画を実際に観た者しか理解できない。映画館で観た者にしか分からない。また、映画館で観ることができても、皆が等しくこのような事態に遭遇できるかどうかも怪しい。

しかし、私は目撃してしまった。三度観た同じ映画で、観客の反応や客席の空気の色がとりどりに異なる現場を。そして、私は実感してしまった。三度観た同じ映画に対する自分の感想は、「松永天馬気持ち悪い」という軸は変わらない。だが、異なる同じ映画を三度観て、編集を終えて筋書きもセリフの一つ一つもみんな修正不可能であるはずの映画を三度観て、映画帰りの夜の質感がそれぞれに違うのだ。

神戸で上映や舞台挨拶の全てが終わり、皆が順次映画館の外へ出た。映画館の玄関口にはどこか和やかな空気が漂っていて、すぐに帰らないファンも多かった。私も映画館で久々に会えた神戸在住のファンの方々とついついだらだらと話していた。するとそのうちに、関係者の記念撮影が始まったのだが、あまりの温かな空気が勢い余り、辺りに残っていたファンまでももう一緒に写ってしまえよ!とカメラに収まってしまった。

ほんまにこれ、「松永天馬殺人事件」観たあと?信じられないほどに、ハートフル!

 

「今日の松永天馬殺人事件は、成仏したな」

やっと人が散り、いつもの閑散とした夜の様子に徐々に戻っていく商店街のアーケードの下を歩きながら、ふと思う。あの犯人も不可解で難解で不快の詰まった作品が、ちびゆかちゃんをはじめとする様々のベストアクトたちにより、偏屈な男が撮った奇特な100分の悪夢のさらに向こう側へと昇っていってしまったかのような気がする。

今日のことは、「松永天馬殺人事件」を観た休日と呼ぶよりは、「松永天馬殺人事件鑑賞事件」に遭った休日と呼んだほうがしっくりきてしまう。映画そのものでなく、映画を観に出かけたその日一日がすっかり思い出になってしまったかのような。

そういえば松永天馬が、大阪の舞台挨拶でこのようなことを言っていた。現代はAmazonプライムといったサービスで自宅のPCやスマホで安価にお手軽に映画が見られる時代であるが、それは映画ではなく、動画なのではないかと。「動画」がコンテンツとして流通するようになったのはここ10年近くの動きだが、そうすると。動画と映画の違いって何なのだろう。松永天馬が言うように、映画が動画として配信されることで充分に楽しむことができるのであるならば、「映画を観に行く」という行為の定義そのものが怪しくなってしまう。

私たちにとって、映画ってなんなのだろう。

私はさっき神戸での一夜を「松永天馬殺人事件鑑賞事件」と呼んだが、あれは確かに動画配信では体験できずに、劇場に足を運んだからこそ遭遇できたことだった。しかし、通常の映画の上映ではそうあんな事態は起こり得ない。

エンドロールで松永天馬は唸るように歌う。

「あんたたちだってスクリーンの外にいるとでも思ってんだろう?」

映画は、スクリーンの外で観るから映画なのでは?他人がフィルムの上に作った世界で、当事者になってみろと言うのか。どうやって?

スクリーンにぶちまけられた松永天馬のベトベトの自意識に、己を省みて問い直せと?

あの事件のあんな顛末から、シナリオどおりの人生や配役通りの自分自身を信じることの儚さに気づけと?

こっちがそのつもりはなくたって、突然こちらを巻き込もうとしてくるあの殺人事件の事件性に、何かを感じろと?

いいや、答えはどこにもない。あの事件の犯人みたいに。

その方法は、観るものに任されている。

振り返れば大阪、京都、神戸、それぞれの殺人事件は、それぞれの思い出を纏ってわたしの海馬にうっすらと浮かぶ悪夢の姿で落ち着いている。

あの悪夢のことをたまに脳裏からひと匙掬い上げて思うには、あの映画を観るには「観る」ということへの能動的な姿勢が必要とされると思う。ただ観ているだけは、天馬がキモくて訳のわからない映画だ。ただ、なぜ気持ち悪いのか、なぜ不快なのか、何が怖いのかを、自分自身の中を探偵してみるような冒険心があれば、楽しめる映画かもしれない。

とはいえ、これは私個人の感想であり、他の人にいかなる作用を及ぼすかは、その人次第である。それが作品だからだ。それが映画だからだ。