グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

20180910 南国の幻想 キノコホテルVS松永天馬 G-shelter

勤め人に与えられた3日間の夏季休暇というグレート・エスケープに、南国の澄んだ海と空の青を塗り敷いて、そこに松永天馬を浮かべてみたかったのだ。

そんなどうしようもない大人の痛々しい夏休みは、美栄橋ONのアコースティックワンマンに引き続き、那覇のG-shelterでのライブに足を踏み入れる。

 

オープニングアクトはぼけちゃん。

予定外にグッときてしまった。

よく知らない人からすれば「あ~、なんだか不思議なお嬢さん」と距離を置かれてしまうタイプのラブリーな装いの女の子が、ギターを背負ってまっすぐに歌う姿に見入ってしまった。

バンドメンバーから突然「走ろう」とLINEが届き、理由も目的もただただ夜の大阪を走り回った話もグッときてしまったのだが。笑。

笑ったって病んだって、歌いたい、伝えたい、表現したいことなんて生きていれば当たり前にあって、それを本当に歌えることってなんて素晴らしいのだろうと思う。

伝えるための声を言葉を音をそして意志を持つことはとても尊い

そうでないと、人の気持ちなんて日々に簡単に移ろって消えてしまう。

 

 

松永天馬は二番手にステージに登場した。

松永天馬とおおくぼけいの2人を目にして、おや、と思う。

彼らはとある予定外の事態を背負ってそこに立っていたのだが、この理由というのがもう。

 

書けないミラクル、が起こった。

書けないけれど、とにかく笑った。とんでもなく笑った。

現実は小説より奇なり、とはまさにこういう状況なのだと思う。小説より奇、どころかこれだけで映画が一つ出来上がりそうだ。

きっと映画ならば、「ミラクルを呼ぶ男。」とでもキャッチフレーズをあてがわれた松永天馬が、一行共々、対バンのキノコホテルをも巻き込んでドタバタ劇を繰り広げた末に無事にステージに立てたところのいいシーン。それが、今回の松永天馬のアクトだった。

昨日に続き、お約束のように松永天馬は「天馬のかぞえうた」でトイレに行った。昨日のライブでこの曲のことを「妊娠検査薬」と揶揄する声が飛んだが、あながち間違いではないのだと2日連続天馬にトイレに行かれて考える。

日本には言霊という言葉があって、口を開いて声にした言葉は、やがて現実の出来事になるという現象がある。「天馬のかぞえうた」のトイレタイムでは、客は演奏の最中、他の観客とともに「妊娠しろよ」と天馬の口ではなく自分の口で声を出して繰り返すことを強いられる。「妊娠」って大多数の人間の日常においてはデリケートな部類に入るワードで、さらにこんな扱いに注意が必要な言葉を命令形で使う機会など、滅多にない。(松永天馬のライブにしょっちゅう行っているとその感覚は麻痺するが)

とりあえず妊娠でもなんでもいい、その場にいる複数名で何かの言葉を唱和するという行為は、一体なんのために行われるのだろうか。

思い起こせば、日本の学校では朝の挨拶に食事の挨拶、始業・終業の挨拶に、クラスによれば学級目標だったり、学校によっては卒業式の児童生徒からのメッセージだったり、やたらと全員で何かを唱和させられる。20世紀風の旧式の風土が残っている企業の朝礼なんかでは、企業理念を唱和するところもある。松永天馬のライブに来るような人間は、だいたいこの類の唱和は嫌いなはずなのだが、しかしライブで松永天馬に指揮されるものであれば、厭わない者が多い。

その場にいる皆で、一斉に何か意味のある言葉を発声する行為には、挨拶のようにその言葉を発する習慣をつけるためであったり、また、その言葉に込められた意味を繰り返すことで各人の精神に身につけさせるためであったりする。そしてさらには、同じ言葉を発する人々と、集団としての一体感を得るねらいもある。

ありがとうございましたと口に出して繰り返すことで、一人一人に感謝の気持ちを起こさせる。卒業式のメッセージを口に出すことで、卒業というイベントの感動を共有する。企業理念を口に出して繰り返すことで、会社の一員であるという意識を根付かせる。

だから、言葉を声に出すことというのは力のある行為なのだ、人の心に作用する力を持つものなのだ。この力のおそろしさに、一種の魔力のようなものがあることを疑い得なくて、きっと昔の人は言霊なんて言葉を思いついたのだ。

 

では、ライブハウスで「妊娠しろよ」とメロディを辿り繰り返す我々に起こることは何なのか。

妊娠する?松永天馬の言葉で。しかも集団で。

いやいやまさかそんなオカルト。忘れられた山奥の村に伝わる口外禁忌の秘祭でもあるまいし。確かに客観的に見れば、ライブハウスの地下で「妊娠しろよ」と黙々と斉唱する老若男女の集団の姿は、熱海秘宝館ぐらいの異様さはあるかもしれない。

きっと孕むなら、「南国の幻想」だろう。

なにせSNSに書けないようなミラクルは起きるし、だいたい松永天馬のために沖縄まで飛んでしまう時点で気が触れかけている、よほど夢に浮かされているとしか思えない。私なんざは仕事の夏季休暇を敢えてこのライブに合わせた。

みんな松永天馬に何かを幻視幻聴した末にきっとここに来ていて、ここで「松永天馬」という表現がつくる3次元、もしくは個々の人間の感性に応じて現れるそれ以上の次元(超次元帝国などという国がありましたね)を感じている。松永天馬の指示で、松永天馬の言葉におのれの口唇を動かして、松永天馬の曲を辿る一つの集団になって、そして彼の表現に及ばされる。及ばされるものが、希望か毒かは、人それぞれだ。及ばされた者の精神がどんな化学反応を起こすか。

私はここに来るまでに、どんな幻を見たのだろうか。言葉を信じる者への希望だろうか。言葉の軽重がさっぱり量れないこの世で、自分の言葉が重いと疎まれて、疎まれることでささやかな自分を軽んじられて、やがて自分は一体何を考え何を発すればいいのかを見失いそうになる中に、見たのだろうか、希望。いいやそれとも、幻?

 

兎にも角にも、私だけでなく、きっと様々の期待や絶望やがプリズムのように現われたり消えたりする幻想がライブハウスにはかき集められていて、そこで響く「天馬のかぞえうた」は、やっぱり妊娠検査薬ではないのだろうか。

ステージの上の人間が創った歌の一つのフレーズに、観客一同が、音と言葉の連なりの一員として一斉に動員される。そこで感じることができるか、できないかを客側は検査されているのかもしれない。

感じる、ということは受胎に似ている、異なる細胞が反応を起こしてあたらしいものに変わることが受胎ならば、感じるということは、異なるものに触れてあたらしいものを五感でも思考でもどこでもいいから自分の中に発生させることだ。

感じますか。異なる人間であるあなたの中に、反応を起こす何かがありますか。

感じましたか、何を感じましたか。

LOVEと感じましたか、HARASSMENTと感じましたか。

あなたにとって松永天馬は。

 

だから松永天馬は最後、「妊娠しろよ」と繰り返して感じて浮かされている我々を諌めるように呻く。トイレから帰ってきた後に。

「だけど だけど出産するな 

   俺の言葉で出産するな

   俺の言葉を全部忘れろ」

 

ワンマンでないということで、松永天馬ファン以外のお客さんもいるライブであった。そこでの彼らの自身に対する説明がまさかの

「おじさんがチェキを売るバンドです!」だった。

ああ、そりゃあそうか。「最近はチェキを売るのが当たり前なんだなあ、フゥン」という感じで慣れてしまっていたが、確かにおじさんがチェキを売る光景およびおじさんのチェキに群がる女性たちの図は異様なのかもしれない。

ちなみに私は普段はこの類のものを買っていないので、詳しい事情というかみなさんが普段どんな感じなのかは存じ上げておりませんが、ただ冷静にみれば「おじさんのチェキ」ってなかなか面白いなあと思ったまでです。今回は沖縄にきた浮かれポンチなお登りさん気分が祟って、沖縄で見たもの聞いたものなんでも容赦無く思い出にしたい気分だったのでつい買っちゃいましたけどね。

 

そうか、改めて思う、おじさんがおじさんを売っているのだ。そして買い手の多くは女性ファン。

日本の「おじさん」と呼ばれる世代の男性というものは、夜の街で少女の春を買ったり、オフィスビルの上の方で若い女性向けの商品やマーケットを開発して資本を回したりする役割の人々であった。そんな「おじさん」が、自らが商品になるかどうかを試しにかかってきている。女性たちを商品として買ったり仕立てたりしていたおじさんが、自分は商品になりますかと女性たちの前で宣言している。

おじさんからの誘いは、いつだってHARASSMENTと捉えられるリスクを孕んでいるけれど、一方で松永天馬のライブのように、おじさんからの誘いをLOVEと受け止める場所がある。

ていうか、おじさんだって誰だっていいじゃないか。むしろ我々はおじさん、おばさんといった「性別×年齢」による基準で人のことを評価しがちな傾向について、もっと自覚的になったほうが良いのではないだろうか。「かわいい女の子」に値打ちがあって「おじさん」に価値がないなんてことはない。ちょっと前者の方が儲かるだけだ。そして儲かるということは、多くの人間が儲かる方の価値観を支持しているし、また多くの人間が儲かる方の自分に近づいたほうが幸せで、儲からない方の自分に自信をなくしがちだということでもある。

でも、人の魅力ってそんなに簡単だろうか。

そんな時代だから「松永天馬」のようなおじさんが堂々と歌ってくれるぐらいでないと、もう、こっちも安心して年がとれない。

死にたい死にたい言ってるうちに死なずにいたら、この国で今だにためらいを続けながらも蔓延る「性別×年齢」の軸ではあまり歓迎されない、三十路独身ババアというジャンルに私は入るらしい。らしいんですけど、それが何やねん。三十路独身ババアと簡単に呼ばれて安く蔑まれていいような人生だったら私とっくに生きてないし、「性別×年齢」で他人を勝手に見下して楽しむタイプの人間やエンターテイメントとはおさらばしたいから、松永天馬を聴きに那覇にまで来ちゃったのかしら。なにせこのライブに行くためだけに、仕事の業務日程ずらしたからな!!大人は楽しいぞ!!!

 

そして最後にキノコホテル。南国の生き物の羽や鱗がとりどりに光を放つようなギラギラのグルーヴが、ハコの中を怒涛のように支配する。

松永天馬が率いてきたミラクルも陰鬱もを、イイエこっちはこっちよと食い殺していくようなギラツキ。気づけば勝手に身体が動いていた。さっき松永天馬という幻想の熱帯をさっき抜けてきたのでしょうけれども、こっちにもエレクトリックで色っぽい地帯があるわよ、さあいらっしゃいと。

 

そこからのキノコホテル×松永天馬によるアンコール!

幻想の熱帯雨林で引きちぎって摘んできた草木を蒸留してできたとんでもない香りのボタニカル・ジンを脳天にぶち撒かれて、ブワッと飛んでしまったような一瞬だった。松永天馬の飛頭蛮が飛んだのをマリアンヌ東雲のヒールが蹴上げる、そんな幻覚だって見えた気がする。そんな合法的にイカれちまいそうな「好き好き大好き」。ええ、合法ですよ。イカレるならば合法が一番ですからね、ダメ・ゼッタイ。

 

ライブハウスを出たらもちろん全ては醒めていて、何事もなかったかのように知らない街の夜をホテルまで黙々と歩いた。コンビニで酒を買ってホテルの部屋に着く頃には、私の夏休みは最後の1日になっていた。

たいして好きでもないのに沖縄だから買ったブルーシールのアイスが溶ける。たいして好きでもないのに珍しいから買ったオリオンの酎ハイが、大した酔いももたらさずに消える。美味しいものも、ライブの興奮も、幻想みたいに現われては消えの繰り返し。

きっと幸福はそんなもんなのだ。ばかみたいに幸せな気分に浸されて、と思っているうちにその多幸感に満ちた心は、平坦にプレスして均されたり、何かがぶつかって損傷したり。あの幸せは果たして嘘だったのかしら、幻だったのかしら、と思いながらも、その幻みたいな幸福をきっといつかまた感じることができる自分の心を頼みに、頼りない心だけれども頼みに、やっていくしかないのだ。醒めた後の日々を。