グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

20180909 松永天馬アコースティックワンマン「OKINAWA LOVE HARASSMENT」

好きな音楽を聴きながら、酒を飲んで街を見下ろし夜に腰掛ける時間は幸福だ。

 

小洒落たカフェバーで座ってダラダラ飲みながら聴く音楽はサイコーよねということです。この晩は沖縄の美栄橋ONというミュージック・バーで、松永天馬のアコースティック・ワンマンでした。

 

客は20人ほど、物販も松永天馬氏が対応というこじんまりとしたライブだった。

規模でいえばファン感謝祭といってもいいが、ファン感謝祭と呼ぶにはファンの交通費がちとかかりすぎる。なにせこの日の客のうちに沖縄からきたのは二人ほどで、あとは皆本土からの遠征者だった。メンバーの負担もそれなりであったようで、おおくぼけい氏は交通費と宿泊費で今回のライブのギャラが飛んだと言っていた。なので、2ショットチェキを買ってくださいと案内があった。

ギャラと経費の悲しい現実…それを言われると、普段そういったアーティストと接触を楽しむタイプの課金を好まない私も、せっかく沖縄にきたのだし、たまにはいいかなと思ってしまう。

多分、昔バンドマンと付き合っていたので、ライブハウスで演奏する側の事情の話をされるとついつい「そんな仕組みなのか大変だなあ、それならちょっとでも手伝えることがあれば」と思ってしまう心の習性が、別れてもう4年近くになるのにまだ残っていたんだと思う。

 

この20人前後の客と松永天馬氏およびおおくぼけい氏とが、国際通りの賑わいの気配を静かに見下ろしながらも、その明りからそっと踵を返して音楽の中に落ち着きたいと願わせてしまう心地よい雰囲気のミュージックバーのワンフロアに集い、ドリンクのグラス片手にゆっくりと楽しむライブが繰り広げられた。

いや、ゆっくりと楽しんだか、と言われるとどうだろうか。カフェバーでの座って飲みながら聴くライブだし、アコースティックだしで、しっとりと落ち着いていた…ことはないと私は思う。伴奏もなく、男一人の朗読だけでも大概暑苦しい松永天馬のライブに、しっとりという形容詞がフィットすることはないであろう。近いのは、しっとりではなくどちらかというとじっとりではないか。湿っぽいんじゃなくて、湿気。

彼の歌には詩には都市がある。都市はいつも乾いているようで誰かの欲望で湿気ている。

 

セットリストは、前半松永天馬ソロ・後半アーバンギャルドのセルフカバーといった構成だった。

欠かさず披露されるのは「天馬のかぞえうた」だが、この曲のライブバージョンを完成させるのは、ライブハウスのトイレかもしれないと確信した。

例年のワンマンライブに続き、またもや松永天馬は「天馬のかぞえうた」でトイレタイムを挿し込んできた。この曲のアウトロは、路地裏の夜影からボソボソと唸るような「妊娠しろよ 俺の言葉で妊娠しろよ」というフレーズを繰り返し、結びに向かう。

この「妊娠しろよ」というフレーズを観客にコールさせるや否や、突如松永天馬は尿意を催したと宣言する。そして、トイレに行ってくるのでその暫くコールし続けるよう観客に投げると、そのままトイレに駆け込む。演奏は続き、観客は戸惑いながら「妊娠しろよ」「妊娠しろよ」とおずおずと声を揃えて繰り返す。まあ、慣れてくるとノリノリになる。

このかぞえうた&トイレの流れに「妊娠検査薬」なんて揶揄が飛んだが、確かに私たちは試されているのかもしれない。松永天馬をどれだけ好きなのかと、好きなら妊娠しろよと公衆とともに歌えと。

さらには、その後のMCでもトイレの話をしていた。ライブハウスのトイレの石鹸が液体石鹸だからどうだとか、地方のライブハウスのトイレはどうだったかとか。さらには、ライブハウスの控え室に貼ってあった凛として時雨のステッカーが「殺人バンド 凛として時雨」というステッカーでダサかったとか。バンドの初期衝動を笑うでないよ。そういえば冬の松永天馬ソロツアーの難波ベアーズもそこまでトイレ綺麗じゃなかった気がするけど大丈夫ですかね。

 

この日、とくに私個人の印象に残ったのは、「身体と歌だけの関係」だった。

身体と歌だけの関係にしよう、松永天馬はそう語りかける。

ライブというものは、身体と歌に約束された1時間そこらのショウタイムであることはわかりきったことだ。銀色の円盤(を所定のファイルフォーマットに変換したもの)の中に閉じ込められた歌ではなく、松永天馬の生身の身体から発される歌のために。そして私たち観客はスマートフォンのディスプレイ越しにあった身体を、わざわざライブハウス、この日なんてわざわざ沖縄に遣って。そしてガンガン演って、ガンガン遣って。

 

さて、どうしてこんなところまで来てしまったかといえば、そこに松永天馬がいるからだ。

松永天馬の言葉がある、歌がある、パフォーマンスがある、そして松永天馬がいる。ただし、そこに居る松永天馬はあくまで「松永天馬」という名義を纏った男だ。私たちがチケット代を払った後の向こう側で触れられるのは、「松永天馬」というラベルを貼られた一見気持ち悪い男の姿をした不審なパッケージのなかに詰められた、彼の作品に過ぎない。だから私は、作品「松永天馬」を鑑賞しにきたというつもりだった。

それだというのに、松永天馬は作品だけでなく、チェキ写真をはじめとする彼自身とファン個人との接触の時間をも、物販ブースで売り出す。自分が作った作品、自分という肉体を一旦離れて紙や円盤のかたちになったものを売るだけにはもはや止まらないのは、当然敢えてのことだろう。金銭の事情も当然あるのだろうが、それ以上の意図がある。彼は意図的に「松永天馬」を売っている。

この日は、本土から遠く離れた沖縄の地で、20人そこらの客を閉じ込めた雑居ビルの小洒落たバーの一室で、彼は彼の言葉と歌を射って彼を売った。普段のアーバンギャルドやソロのライブに比べて、とても近いところで聴けたことに驚いた。また、大きな窓越しに夜の繁華街の街明かりが立ち上るほの暗い部屋に、レコードや音響機器やクールな調度品やオーナメントが然るべきところに集って落ち着いている都会的で洗練された雰囲気の会場自体が、まるで小さなシェルターのようだから、自分は何か特別な空間に

連れてこられたかのような錯覚に心地よく酔いたくなる。

でも、酔い切ることはない。変わらないのだと思ったから。この日とても近い場所にいた彼が歌う場所がどれほどのハコであろうが、彼が一人で向き合う人間がたとえ何人であろうが、変わらない。

彼は、「松永天馬」というプロジェクトでありプロダクトだ。表現であり作品であり商品だ。

だからこそ、松永天馬と私たちは『素敵な僕らの素敵な歌だけの関係』でいられる。

松永天馬の身体と我々の身体が小さな小部屋の中で相対していて、相対する空間には歌がある。この空間に松永天馬は確かに居るけれど、その本質は彼自身ではなく、彼の歌であることを望まれている空間ではないのだろうか。

歌だけが残る、歌だけが残る、松永天馬は何度も繰り返す。

歌の中で彼はひたすらに独白を続ける。愛することがハラスメントと受け取られる時代に危惧したり、プレイメイトと称する誰かに愛のような憎しみのような囁きをして見たり、俺の言葉で妊娠しろよと客に迫ったり、好きな男の名前を腕に刻む女の歌をカバーしたり、ロックンロールに十字を切ったり、死の前の七日間の恋を試みたり。ソロで、独りで唸るように黙々と、歌う。松永天馬という男が血と精のはざまに吐き出す言葉が、歌だけを。

この歌の中に私たちもいない。私は確かに歌を聴いているけれど、この歌は松永天馬の歌であり誰の為の歌でもない。あるのは歌を聴いて発生した自分の感情の動きだけだ。

 

身体、言葉、歌。ただそれだけが、熱を帯びて顕われ、そして終わりの時間が来れば霧のように散って消えていく。

 

どこで聴いたって。

東京でだって沖縄でだって、大きいライブハウスだって小さなミュージックバーでだって。

 

ただそれだけの関係のために、遠い遠い離島で夜を明かす。

さっき観た「松永天馬」は誰だったんだろうかと思いながら、彼の歌を繰り返しプレイしながら、身体と歌だけの関係をプレイして夜を閉じる。

PLAY ないしPRAYして。

 

しかし、最後のアンコールで「生転換」って叫んだら本当に叶ったのがとても嬉しかった。「生転換」が大好きなんですよ。一番最初に六本木で聴いたときの「私ようやく生きられる」のフレーズで、自分の中で構想していた物語の塊の主人公がはっと目を見開いたような感覚に襲われた。

「ようやく生きられる」なんて歌詞があるけれど、松永天馬ソロって「生きよう」という意思が強い気がする。恋だって生きているゆえの能動的な行為だし、血や精は生きている人間から流れるものだし、妊娠して生を孕めよとリピートする(させられる)し。

泥のように濁った自意識に膝抱えて沈んで死を夢見ている場合じゃない、けれど泥にまとわりつかれた身体は簡単に自由にならないと足掻きながら生を目指すような。

 

まあかの夜が夢であろうが現であろうが鬱であろうがライヴは続く、続きは翌日のG-Shelterのライブへ。