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180825 「バウハウスへの応答」京都国立近代美術館

バウハウスへの応答 | 京都国立近代美術館

 

デザインは、何より人間のためにある。人間が、かつて神様の物語や自然の及ばない広大さを畏怖して暮らしてきたことに比べれば、実に。

芸術はかつて神様の世界の道理を語るためや、自然の万物事象を描き写すために発展してきた。しかしやがて、人間は人間自身の生活の効率や機能を重視してものを作るようになった。人間は、優れた造形のものたちを、額縁やショウケースの中に飾って堪能するためだけならず、人間の生活の役に立つためにも造っていく。人が作り出すもの価値を測る基準に、すがたかたちが巧みで美しいかという尺度のみならず、それを使って暮らしていく人間にとっていかに実用的であるか、機能的であるかという尺度も大事にされるようになる。

この考え方をひとつの思想のかたまりにしたのが、デザインなのではないだろうか。私はこの分野について専門的な教育を受けてきたことはなく、詳しいことなどさっぱり知らぬ素人なので、あくまでも素人の雑観なのだが、「デザイン」というものの説明のひとつとしてそういうところもあるのかもしれない、と思った。

 

そして現代の私たちは、この美+実用・機能を重視する価値観を基本に、当たり前に暮らしている。おかげで、このブログを書いているMacBookairも、ベッドの上で充電器に刺さったまんまのiPhoneもみんなスリムなフォルムかつ便利なアイテムだし、iPhoneを寝かせているベッドのリネンには機嫌よく眠れそうな綺麗なブルーの花がプリントしてあるし、ベッドのフレームだって、組み立て式の安物ながら人間一人が寝るには十分な形を保っている。

こうやってデザインの恩恵に囲まれて私たちは暮らしていて、でもこの「デザイン」が、いかにして私たちの暮らしに対する考え方や美意識を変えたかということに気づかせてくれるのが、京都国立近代美術館バウハウスへの応答展」だ。

 

バウハウス」って、どれぐらい有名なのだろうか。

私はたまたま学生時代、近代史や西欧文化についての講義がふんだんに組まれたコースにいたので、バウハウスの存在を見聞きしていた。19世紀から20世紀にかけ、新しい政治や文化が次々生まれていく時勢において、芸術の界隈に現れた革新的な学校。校舎の外壁に堂々と並ぶ「BAUHAUS」のロゴを仰いで撮った写真が有名なクールな建物の学校。この写真が日本人の留学生によって撮られたことも知らなかった。(もし学生時代の講義で解説されていたのならば、当時の教授、不真面目な学生ですみません・・・)

www.cinra.net

バウハウスの設立は1919年で、このころの日本は大正時代、明治維新以降に西洋から取り入れた煉瓦造りの大きな西洋風の公共建築や、設備などが少しばかり近代風にアップデートされた旧来の日本家屋が入り混じっていた頃だろう。そんな時代に、コンクリと全面ガラス貼りの四角い箱が組み合わさってできたモダンな建物で学んでいた日本人がいるなんて、とってもカッコいい!

 

そう、バウハウスは、かっこいい。

展覧室に並ぶ、コンクリートとガラスでできたあの近代建築のデッサウで育まれたものたち、デッサンや講義ノートや立体の習作といったものたちは、幾何学的なモチーフの組み合わせや、ビビッドで重い独特の色使いや、計算されたかたちに溢れている。これらはみなとても人工的な姿形をしている、自然の森や海にはない色づかいやかたちをもつ、人間が人間のために整えたかたちをもっている。何もしなくても眼前に広がっていたり、そこに当たり前に植わっていたり流れてきたり降ってきたりするものではなくて、人間が意図的にそうあるべしと作ったーデザインされた姿形をしている。こういった人工的に設えられもののことを、私たちはモダンだと称するようになり、そしてまた魅力を感じるようになった。

現代の私たちは、あらゆる人工物に囲まれての生活が当たり前であるから案外気づきにくいのかもしれないが、人類の歴史において、ここまで徹底的に人工的なものを、美しい、素晴らしい、と多くの人が認識するようになった時代って、もしかしてバウハウスができた頃の20世紀やそこらの話なのかもしれない。神様でも自然でもなく、人が人のために意図してデザインしたものに美を感じるという、新しい体験をしたのが20世紀であり、モダンな時代だったのかもしれない。そして20世紀のモダンの先に訪れた次の世紀を、ノストラダムスのこともすっかり忘れて生きている現代の私たちは、人工的なモダンデザインを愛しつつ、かつ、人工物とは対象にある、森や海といった自然の美しさ、寺社仏閣の厳かさ、動物の愛くるしさなどをも同時に愛でながら生きている。

モダンなものは魅力的だ、人工的なものは魅力的だと思う感性の根っこのようなものを、たくさんの人にとって確かなものにした大きなきっかけの一つが、バウハウスだったのかもしれない。バウハウスは、こういったモダンデザインの考えを、ジャンルを限定せずに展開しようと試みてい他のだろう。建築に、工芸に、絵画に、とにかくあらゆる「手工業」に、職人仕事に。人が生きることにまつわるありとあらゆるものに、モダンデザインを適用しようと。

 

キュレーターでも何でもないので、公式サイトや情報サイトの説明通りのことしか書けないのだが、「バウハウスへの応答」と題されたこの展覧会では、バウハウスの影響が、日本とインドでどのように受け止められ、発展していったかが紹介されている。

日本では、ポスターのデザインから店舗のレイアウトまで、日本で造られるものをより洗練されたものへとブラッシュアップしていくために、バウハウスの考え方を紹介した記事や、バウハウスの考え方を取り入れた教育カリキュラムが組まれたりしていった。

一方で、インドでは、デザインするものをモダンに洗練させていくという方向ではなく、インドに昔からある民芸的、土着的な手工業を生かそうとする教育機関が設立され、それがカラ・ババナという学校だそうだ。カラ・ババナの展示室は、説明されなければ、まさかバウハウスの影響を受けたものだとはわからない。それほどに、身近な生活の一片を描いた水彩画の絵葉書、刺繍織物、素焼きの玩具、木や藤の家具といった、その土地の人々の暮らしに根付いた作品たちが並ぶ。

「職人と芸術家の垣根をなくし、手仕事を大事にする」というバウハウス設立時の理念は、インドの織物や木工や陶業といった手工業に光を見出したのかもしれない。このインドのケースを考えると、日本にだって同じように、陶磁器職人や畳やふすまの職人、瓦の職人に着物の染や織りの職人など、日本古来の手工業の職人がたくさんいたはずなのに、こちらを活かす方向にはバウハウスの理念が生きなかった。でも、日本のモダンなグラフィックやモチーフも、インドの伝統的な工芸品も、どちらも「バウハウス」というテーマのもとに集合しているのだから、面白い。

 

そうだ面白いな、と思ったのは、バウハウスに留学生していた女性によって、家庭用の手織り機が開発され、発売されていたという展示だ。日本のバウハウス受容は日本の伝統的な暮らしの文化とすれ違っていたように思えたが、そうでないケースもあった。古来のドイツで学んできたモダンデザインの機能性の考え方を、日本の家庭の主婦が使う道具にいち早く取り入れた人がいる。

この手織り機は「みちこ・ておりき」という、とっても可愛い名前がついているのだが、日本の家庭の主婦の暮らしも、もっと便利に、もっと機能的に変えられるんですよ、というバウハウス帰りの先進的な女性からのメッセージなのかもしれないと私は思った。生活の仕方、暮らし方そのものだって、デザインの対象なのですよ、というメッセージ。

 

じゃあ、バウハウスから100年近い年月を経て、すっかり近現代デザインの恩恵にまみれて生きている私たちだけれど、果たして自分の生き方については、どれだけデザインしようとする意識で生きられているんだろうか。

 

デザインは、とても人間中心的なものだ。人が、人間の美意識や生活の快適のために、ものを作っていく営みだ。そして、人のためにものを造るということは、人がどう生きたいかを考えることでもある。ものをデザインすることは、人の生き方をデザインすることでもある。人が人らしくいようとする事態の表現である。

平成もとうとう終わろうという2018年、私たちはありとあらゆるデザインされた道具や建物や風景に囲まれて生きている。物だけじゃない、世の中のシステムだって言ってしまえばデザインだ。怪しい制度になっていつつも老齢年金がもらえることだって、私たちの老後の暮らし方の方針の手段であり表現だ。

ありとあらゆるデザインされた物たちが豊富で、私たちはこの豊富なデザイン済のアイテムから、適宜必要なものを選んで享受すれば、充分スマートに生きられるとされている。

けれども、私たちはデザインの見た目の美しさやキャッチーさにばかりつい気を惹かれがちで、つい忘れがちになってしまう。どんなデザインを好むか選ぶかは、自分という人間がどうありたいか、どう生きたいかの問題にもつながるということを。

 

バウハウスは、デザインすることに自覚的でありましょう、と宣言した学校であったのではないかと思う。この宣言に、かつての日本人も、インド人も、応答した。それが「バウハウスの応答」展の中身だ。では、バウハウスの100年後を生きる私たちは、どれだけバウハウスの理念に応答できるのだろうか。人が人らしくあることに、自覚的に生きられているのだろうか。

 

そういえば惜しむらくは大判のパンフレットをもらわなかったことだ

今回の「バウハウスへの応答展」もかっこいいの用意してくださってたみたいだが見事に受付に寄るのを失念

 

 

 

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京都国立近代美術館の1階フロアの奥の、静かな静かなロビーに、

真夏の日差しに眩しく褪せていく緑

岡崎公園をめぐる赤いドレスが翻すは幸福の端