グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

美しい海岸を見た話

職場の面々と一泊二日で鳥取方面へ行ってきた。

私も大人になったものだ。元来社会不適合な性分ながら、運よく今の職場に拾ってもらったおかげで、私は「ちゃんとしたところに勤めている正規雇用の社会人」「安定収入」という現代日本における生存のためのスーパーアイテムを手に入れた。肩書きと安定収入は、個々人のロクでもない性質性格なんていとも簡単に覆い隠してくれる素晴らしいマスクで、これがあるかないかで人生の難易度がだいぶ変わってくる。こんな私にもこのスーパーアイテムを与えてくれた恩から、仕事にはそれなりにきちんと勤しんでいる。このマスクがなければ到底生きるのに困難する社会不適合な性分を、日々頑張って勤め人の型からはみ出さないように流し込むことに努めながら。

 

そう、まともに働く私は、もともとそういうかたちにできているわけではない。型をとって作った私だ。だから、時々型からはみ出したくなって疲れてしまう。だから、なるべく型どおりでいなくてはいけない時間は少なくいたい。

それなのに、4月から勤めている今の職場は、スポーツのようなレクリエーションが盛んで、どうやらこのレクリエーションに参加して、コミュニケーションの深度を深めることが仕事を円滑を進めるための鍵らしい。というわけで、不本意ながらも私は集団でスポーツという、内向的にインドアにひとり気ままに過ごす時間を愛する自分の性質とはさっぱり真逆のアクティビティに参加してしまうこととなった。

友人各位から、お前がスポーツなんて大丈夫かと懸念の声が上がった。通信簿は体育だけ2だったし、高校生の頃の球技大会は、私の性格に理解を示してくれていた担任が無理はしなくていいぞと欠席を許してくれるほどに私は集団での和気藹々とした活動に不向きな人間だった。

 

そんな私が、職場のみんなで、スポーツのアマチュア大会に出場するために、車に乗って朝から一泊二日の旅へこりゃあ過剰適応だ、と自我自賛、ええ自賛です、自分で自分を賛美してやらないとやってられませんわ。大人になるって、こういうことなのか。

 

 

そして車は延々と日本海沿いを走り抜け、浦富海岸に着いた。

そこに待っていたのは、自分の本性に反する選択をしないと出会えない場所だった。自分一人ならば絶対選ばなくて、仕事がなければ選ばなかったルート。

 

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初めて見る日本海の海岸は、とんでもなく美しかった。

南の島のものだと思っていたエメラルドグリーンの海は、兵庫と鳥取の県境にあった。

水平線の向こうから砂浜に押し寄せてくる波はひとつひとつが大きく荒く、瀬戸内育ちの人間には想像のできない厚みだ。轟々と立ち上がる白い波飛沫の端は、まるで削れたエメラルド色の鉱石の端みたいだった。あまりの高波は、テトラポットをも砕かんとする勢いで容赦無くぶつかっていくが、灰色のコンクリートのブロックの前に白い宝石の破片をきらきらと散らしながら消波されていく。

ゴツゴツとした赤茶の岩が積み重なった上に松や木々の緑が被さって、小島のようになった岩場がエメラルドの上に浮かび、また岩場と岩場の合間に、夏の陽を浴びてきらめくエメラルドの揺れを閉じ込める。

 

 

この海岸は、日が暮れてくれてもまた素晴らしかった。

一通り遊んで夕食を済ませた後、花火を持って再び浜辺へ繰り出した私たちを待っていたのは、夕暮れの橙と夜の藍が、水平線に沿って溶け合っていく瞬間。

燃え上がるような激しさで暗闇に抗っているのではなく、夜の訪れを穏やかに待ち受けていて、ゆっくりと瞼を閉じるように沈んでいく夕日だった。

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そして昼が完全に眠りに落ちると、夜が果てから果てまでを藍に塗りつぶし、そこに無数の星を引き連れて散りばめていく。手に握った柄付き花火が色とりどりのささやかな閃光を放って弾けていくのを見送り、歓声をあげて愛らしい火花の周りに集う職場の人々を見遣り、天を仰ぐ。星はこんなにもびっしりと存在していたものなのだろうか、と驚くぐらい、小さな星も隠れることなく、確りと星の並びの上の己の座に据わっている。誰かが空を指差し、有名な星座の名を挙げる。

 

美しい。美しい。何度も口に出さずに胸の中で繰り返した。

きれいだね、と誰かに言いたかった。

でも言わなかった。言いたい相手がいなかった。

私の感じた美しいという気持ちを、是非とも一緒に貴びながら、傍に居て欲しいと思えるほどに想っている人間が、そこにはいなかった。目の前に広がる驚くべき青の広がりや光の粒たちを、是非とも一緒にいとしみたい相手がいなかった。

 

これは寂しい事態だと思った。

でも、寂しくてよかったと思った。寂しさをきちんと取り戻せてよかったと思った。

 

働いていると人に囲まれている時間自体は多いので、孤独からは遠ざかる。この日のように、休日も職場の人間と外出するようなことがあると、なおさらひとりになれない時間は多い。

けれども、ひとりになれない時間が多いということは、感情のリソースを自分のためだけに割く時間が少ないということでもある。ものの感じ方や考え方のチューニングをどうしてもその時一緒に活動している他人に合わせてしまうので、自分のチューニングで

自分のためだけに、物事に対してきれいだとかしあわせだとかを感じる余裕が減る。

ただでさえ、不適応な人間性を社会性の型からはみ出さないように気をつけながら生きているのに、とうとう休日であるはずの土日まで型の中にいろと言われれば、当然、私がすり減ってしまうばかりだ。どんどん私の精神が仕事中心になっていってしまい、型からはみ出すものたちは、表に出すべきものではないものとして捨ててしまわないといけない危機感に苛まれて暮らしているというのに。

 

それが、他人に自分のあり方を制限される過ごし方をすることで海に連れて行ってもらったおかげで、私は自分のあり方を取り戻したという奇遇な経験をした。

たくさんの他人と一緒にいながら、誰にもきれいだね、と言えない私は見事に孤独で寂しい。だから、私の感じたものは私のものでしかない。誰にも共有できない幸せ。共有なんて望んでもいないし期待すらこれっぽっちもしていない幸せ。私がただ私のためだけに、美しいものを美しいと感じて悦に入ることのできる権利。

 

他人と一緒にいることで出会えた景色が、尊い孤独を思い出させてくれた。

それほどに圧倒的なブルーが、あの海の夏の昼と夜にあった。