グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

知っているようで全然よそ者の町の路地で飲んだ時のこと

この春東京に転勤した友人が、この週末に京都に用事があるというので、

いつも一緒に遊んでいた数名で京都に集まることにした。

暑いときはいたく暑く、寒い時はえらく寒い京都は、連日ニュースになるこの2018年の酷暑のもたらす熱風を、不快極まりなく煮えたぎらせていた。

しかし友情に基づく約束は、そんな暑さも疎ませずに…とは言わない、日本の高温湿潤な気候はそんなに甘くない。私は少なくとも家を出るのが億劫で仕方なかった。けれども、会いたい友人たちというのもまた、例年にない暑さの夏に負けるほど甘くない。かくして私は京都へ向かう。

 

待ち合わせの店は、今日集まる友人の一人が行きたがっていた小洒落たカフェだった。

大きなガラス窓と打ちっ放しのコンクリートの壁に囲まれた空間に、大人数が集って囲むための寸法に造られた大きな木のテーブルとベンチが、澄ました様子で悠々と並べられている。迎え入れてくれるのは、白いシャツと黒いエプロンに身を引き締めた、比較的若くて洗練された風体の店員で、18時の予約に時間通り現れた私は、彼らの爽やかな「いらっしゃいませ」にその日の夜の営業の一番乗りで迎えられた。

18時ジャスト、店には私一人だった。

そしてしばらく、ずっと一人だった。

他のメンバーは全員遅刻だった。

一人は理由不明、一人は京都市バスの渋滞で、一人は鴨川沿いで迷子になっていて。

 

道中を急いでくれているはずの友人たち、「先に飲んでて!」とiPhoneにメッセージが来るが、ここは四条の路地に佇むおしゃれカフェ、複数人のグループの歓声が朗らかに集えるように想定された大きな木目のテーブルの隅に、私は一人でぽつり。テーブルとしても、自分がカウンター席のような一人客のために作られた存在ではないことはよくよく自覚しているだろうから、一人でぼうっと座っているだけの私のような客など招かざる客であろう、心細い気持ちであろう。別の友人からもメッセージが入る。

「先飲んでてな、一人で飲むの勇気いる店やと思うけど 笑」

な、わかってるやろ。わかってるのに言うてるやろ。私の背中側のカウンターにいる店員の姿はこちらからは見えないけれども、振り向いて見遣るわけにもいけない。私の背中のずっと向こうには、18時の4人の予約客のために整えた支度が、なかなか必要にならなくて持て余してる小ぎれいな男性店員たちが、げっ歯類に似た顔をしている地味げな女が待ちぼうけを食らって黙々としている様子に、笑えもせず、かといって無愛想にするわけにもいかずに微妙なポーカーフェイスを気取っているなんて光景が広がっていたら、気まずくて仕方がないんだよ。

しかしながら、時は刻々と流れるが、遅刻理由不明の友人の乗り込んだJRも、夕暮れの混雑に乗り入れる京都市バスも、迷子の本来横に並んでテーブルの周りを満たすべき人間は待てども待てども来る気配はない。こうなっては仕方あるまい。

「すみません、エールビールください」

私は小さな勇気を振り絞って店員の方へ顔を向け、手を挙げた。

待ったところで、友人たちを乗せたJRや、夕暮れの京都市街地の道路渋滞に乗り入れた京都市は、今すぐに彼ら彼女らをここまで運んでくれるわけはない。

そういえば迷子になっている友人は、どうなったのだろう。iPhoneには、鴨川で迷子になっている彼からから「今ここにいるんだけどどこだろう」と鴨川沿いの画像が送られてきていた。その画像というのが、中心に鴨川と両べりに沿う河川敷、傍らには納涼床のせり出した飲食店が立ち並ぶ様、という、あまりにも典型的すぎる鴨川像だった。京都の町を長く続く鴨川沿いの、ある特定の場所だということを示してくれる目印もランドマークも何一つない、どこかで見たことのある、鴨川沿いのどこかでしかなかなかった。彼の現在地について、だいたいどの辺りで、目的地までどのくらいという推理を働かせることができる人間は誰とておらず、誰一人として彼の現在地について「川沿い」以上の発見をなし得なかった。いやさ、あんなに特徴のない鴨川の写真、困るわ。

要するに、こいつもすぐには来ない。だから居た堪れなくなった私は、皆の「先に飲んでて!」 のメッセージに馬鹿正直に甘えた。ほら、あなたたちが来ないから、本当に先に飲んでしまったわよ、とメッセージアプリにビールの画像を送る。

 *

そして18時半を回った頃に、バス渋滞に巻き込まれた二人目が現れ、迷子の三人目も川だけを手がかりになんだかんだで現れた。結局、4人で約束していて、全員が店で数ヶ月ぶりの互いの顔を見ることができたのは19時をすぎてからだった。

まあ、私が時間通りに来たのも、たまたまこの春から田舎に赴任しており、京都までの足が1〜2時間に1本の高速バスであるがため、時間に余裕を持ったバスに乗車できていただけだった。まあ正直、もし私がこんなバスを必要としない、JRの新快速か阪急のマルーンでチャッと京都に駆けつけられる都会に住んでいたら、果たして間に合っていたかどうかわからない、私が3人目か4人目だったかもしれない、そんな自信は有る。

けれども、今日集った4人なら、誰が3人目でも4人目でもきっと笑うしかしないだろう。私たちは、各々のマイペースを崩しすぎず、いい加減さを許容し合うところに友人でいることの愉楽を見出している。そんな人間たちの集まりに、酒が入ればどうなるか。

もっといい加減に許しあって楽しくなる。

* 

4人で岩ガキを頼んで、ならばと白ワインのボトルを一本追加する。ボトルの中で静かに沈む淡い葡萄色の液体が、まごつくことなくどんどん減ってゆくにつれ、夜が私たちの自由さの味方になっていく。気づけば大窓の外で陽は沈み、間接照明の橙が煌々とシェードの下で膨らんでいる。

東京で一人暮らしを始めた話、仕事の関係で手に入る違法薬物の話、メンバーの一人の彼女がいかに良い女性かということ、辛い恋を終えた後、マッチョと新しい恋に落ちかけている話、私の田舎暮らしの悲喜こもごも。各人が好き放題に話を投げ合う。投げ合いながら、一人がぽつりとつぶやく。

「私たち全然お互いの話聞いてへんよな。」

すかさず反論が飛ぶ。

「聞いてるよ」「意外と覚えてるよ、下世話な話なんて特に」

「私らの会話はキャッチボールをしてるわけじゃない。みんなが投げたボールを特に拾おうとはせず、飛んでるのを見ているだけや。」

そういえば、コミュニケーションはよくキャッチボールに喩えられるが、別々の人間同士が、いつだってボールを的確にキャッチし合えることなんてないと思う。自分の放ったことや自分の存在を、他人にしかとキャッチして受け止めてもらえるならば、安心なことこの上ないだろう。

しかし、人と一緒にいることは、常にキャッチボールに最適な状況が整っているわけではない。投げる側の球の速さや大きさ、受け止める側のコンディション、キャッチボールをする場所の芝生や天気の具合は流動的だ。いつだってバッチリとボールのやりとりができる相手と状況なんて、どんなに仲が良くたってありえないと思う。

それに、どうせ仲良くするのなら、キャッチボール以外の遊びもした方が楽しい。ふざけた球やトリッキーな球、とにかく「人を傷つけない」というルール以外は無法地帯に近い状態で好き放題に球を投げて、投げられた方は拾ってみたり、蹴ってみたり、ヘディングしてみたり、取りこぼしてみたり、転がしてみたり。

他人と付き合うこということは、完璧なキャッチボールを目指す方法だけではなく、キャッチだけではないボール遊びをどこまで楽しくやれるかという方法も有るのだ。特に仕事の付き合いなんかは、前者の方法を追求する方向に傾きがちなので、後者の楽しい方のやり方って、当たり前にできているようでできていない日々も多いのだ。

そして、後者の楽しい方の方法だって、ある意味では、キャッチボールが成立しているとも言えるかもしれない。無節操に飛び交うボールを通して、互いの存在をきちんとキャッチできているのなら。

切り分けたカルツォーネから、チーズの絡まった野菜や肉がトロトロと垂れていくのをフォークで掬いながら飲んでいたところ、メンバーの一人の、マッチョと新しい恋に落ちかけた話が、野球ボールサイズの話題だったところ、残りのメンバーの好奇心と興味に膨らまされ、気づけばソフトバレーボールサイズぐらいになっていた。4つのワイングラスが空になったことを確かめて、近くに知り合いのバーがあるから2軒目へ、という号令がかかる。

こうしてほろ酔いの4人は、熱気立ち込める夜の京都の路地に、アルコールの熱に暑苦しくなった4者4様の身を紛れ込ませてゆく。酒と久々に会う友人との会話とにすっかり惚けた脳を、黒髪の女主人が待っているバーカウンターにひとまず落ち着かせる。

タンカレー・No.10をロックで頼んだら、さあ、再開しようマッチョの話、乾杯!

すると乾杯から1分で、「私、相手にセーヨクのバケモノって言われてさぁ〜」と妙齢女子の悩みにしてはあまりにも力強すぎるぼやきがぶち込まれ、全員で彼女の力強い肉体を大笑いで讃えた。

2杯目にチンザノ・ロッソをストレートで頼んだあたりから、私は絵に描いたような酔っ払いらしく、周りのことがだんだん見えなくなり(見るのが面倒になり)、頭に湧いてくる物事を勢いに任せて流出させ始めた。金髪で仕事はできるはずなのにどうしてダメなんだ、世間でお堅い仕事と言われている業界で、お堅いライフが当たり前の人間ばかりだからこそ、私がお堅くなくなるしかない!こうなったら小説を書いてやる、私は物書きになってやる、今年こそ書くぞ宣言だ。とっても気持ち悪いバンドが好きで、えっマスターご存知ですか、みんなごめんなキモいバンド好きやねんな!

けれども、こうやって酒に任せて流出する私のくだらない憤りや、あまり他人に言ってこなかった趣味に対して、否定するナイフはどこからも飛んでこない。

だって、キャッチするためのボールなんて投げていないから。ボールを投げることそのものを楽しんでいて、ゆえに、他人の投げてきたボールにOKもNGも出さない。

ボールを眺めてちょっと美味い酒が飲めたら万々歳。

そうやって、全くの他人が全くの別人のことを知ってゆく。知ろうともしていなかったことを、アルコールに加勢されて勝手に発信するものだから、勝手に知ってしまう。知ってしまいながら、そこも面白いね、と受け入れていく。かくして全くの別人同士の私たちは、互いに親密を覚えてゆく。

そして宴は続き、繰り返される。

 

そういえばこの日は京都で、京都とは、知っているけれどもよその街だ。

長年兵庫で暮らしていた私にとって、京都は用事があれば行くけれども、住んだこともなければ、そこの人間と何か関係を交わしたりということもない、深く関わることのない街だった。顔見知りの知人のような場所だ。

けれども、酔っ払った私たちは、顔見知りの町の路地裏で、とても自由になっていく。頬をアルコール流れる血の色に染めて、惚けて河原町の駅を目指す私たちに、当たり前みたいに通過されていく。

改札の前で、京都に宿をとった友人に手を振り、残りの3人は十三行きの特急に乗り込む。

そうやって、全くのよそ者の人間が、全くのよそ者の街に、少しばかり身を預ける。私たちは決してこの街の人間ではないけれど、私たちは確かにこの街の夜の一員だった。友達4人の他愛もないけれども貴く愉快な一編が、アルコールに加勢されてその夜も編まれたものだから、顔見知りの街に少しだけ愛着を抱いてしまう。

そしてあとは酔いを覚まして、眠るだけ。