グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

恋愛展開拒否シンドローム

転勤し、職場から近い社宅をあてがわれたので、

ちょうどNHKの朝ドラを見終えた頃に家を出ると丁度いい出勤時刻になる。

というわけで、「半分、青い」も何となくて見ているのだが、

このドラマ、観たいシーズンと観たくないシーズンに分かれる。

 

オフィス・ティンカーベルにいるあたりの頃はいつも楽しみに見ていた。

井川遥の丸メガネにPINK HOUSEの出で立ちのあまりの魅力に惹きつけられたことも大きいが、

何よりも、このころの鈴愛が、「マンガ」という一つの目標に向かって、鈴愛が秋風先生という歪んだクールさを持つ素晴らしい先生の元、ユーコやボクテという仲間を得てひた走る姿を毎日そっとブラウン管の向こうから覗くのが楽しかった。

マンガを諦めた時は、一緒に悲しかった。こんな日が来ないわけはないし、こんな日が来てしまうのだと。30代も手前になって、これだけがあれば、とひたむきに打ち込んできたものに挫折して、これから自分は何を目指して、どうやって自分の食い扶持や社会の中での立ち位置を立て直していけばいいんだろう。そんな不安は途方もないものだろう。

けれども、鈴愛ならきっと何とかなるさ、という期待をする。なぜならこのドラマがまず、片耳の失聴に対して彼女が放った「半分、青い」という、暗い現実を明るく解釈し直してしまう言葉をタイトルに冠しているからだ。あの鈴愛なら、大丈夫だろう、この挫折も明るく打開してくれるのだろう、と。

 

しかし、次週の彼女に用意されていたのが新しい男との出会いだったことで、私は8時になるとテレビのチャンネルを変えるか、チャンネルの消音ボタンを押すかして、朝の身支度を整えるようになった。

それは、恋愛展開が苦手だ、恋愛によって未来が開けるなんて期待はとてもしたくないという全くの個人的感情によるものだった。そして、恋愛によって未来が開けるという期待は、鈴愛たちが描いていた少女漫画の世界において絶対に近い価値観だ。

年若い少女たちの娯楽として用意されている少女漫画の王道は、一人の少女が異性との恋愛を通して、自己の価値を見出したり、活路を開いていくというストーリー展開が王道だ。少女にとっての、女にとっての希望は、恋愛だ。こんなメッセージが、幼い少女やティーン向けのコミック誌に、少女たちの娯楽のための媒体に、ふんだんに詰め込まれている。

 

けれども、恋愛はちっとも大人を救ってくれない。

漫画のように素晴らしいパートナーが運命的に登場するなんてことはあり得ない。

登場したって、現実の私たちには、漫画のハッピーエンドの先にある、

揉め事や、日々のすれ違いや、どうにもならないことや、別れの経験の可能性が充ちている。

ハッピーエンドを目指して、愛されるための努力や競争は女たちを摩耗させる。

恋愛は可愛いことが重要とされるけれど、可愛くなれなかった場合や、可愛いとされる価値観にうまく馴染めなかった時、世の中における自分の身の置き所に戸惑ってしまう。

だいたい、恋なんてしなくても仕事はできてしまう、飯を食っていけてしまう。

婚活なんてものは何だ、多くの求婚者たちを沼にはめているではないか。

 

少女漫画のセオリーは簡単に大人を裏切る。

女にとっての希望は恋愛、ではない。

きっと女にとっての希望としての恋愛ロマンスを描いてきた鈴愛が、

少女漫画を諦めた先の道を、恋愛に託してしまうことが私は怖いのだと思う。

恋愛のような、他人に依存してもたらされる幸福ではなくて、

仕事、鈴愛でいえば漫画のような、自分を軸にして掴み取っていく幸福の方を信じさせてほしいと、身勝手に願ってしまうのだ。

少女漫画的価値観にどっぷり浸かった上でその裏切りを知ったからこそ、傷心で始めた新しいアルバイト先で素敵な男性と出会って・・・なんて、まるで少女漫画みたいなドラマの展開に、警戒してしまうのだ。

そして私は8時になるとテレビのリモコンに必ず手をかける。

 

ドラマの感想など、本当に人それぞれで、勝手なものだ。

こうやって視聴者が個々の勝手をあーだこーだと言いながら、ドラマの1シーズンは過ぎてゆくのだろう。

あーだこーだ言ってるうちに、永野芽郁ちゃんもとても魅力的だし、また観たいシーズンが来れば嬉しいなあ。