グラス一杯、なにかを

とりあえず書き置く癖からつけようぜ

文系学部から社会、学問と社会とのブリッジ

転勤がほぼ決まり、荷造りに向けて本棚の本を整理する。学生時代にゼミのテキストや資料として使っていた筑摩の文庫や岩波の文庫にはシャープペンシルで書き込んだアンダーラインや付箋がチラチラと覗いている。大学を卒業してもう8年ほどになる。職を転々としながらも大学を卒業して働き続けて8年、私に学士号を与えた4年間の学生生活は、果たしてどれだけ社会に出るために役に立ったのだろう。

 

と思うのは文系学部、とりわけ文学部などは「就職に役に立たない勉強」と思われがちで、経済学や経営学や法学といった分野とは異なり、特定の仕事やビジネスに活かせるような専門性を持たない文系学部を私は卒業したからだ。

 

本のページの合間に貼り付いたままの付箋に改めて目を通してみる。テキストの内容を自分なりに整理していた。私たちのゼミは、課題のテキストを読んだ後、各自が内容をレジュメにまとめ、そこから内容について討議したり、講義を受けたりするというスタイルのものだった。資料を読み、期日までに自分なりにわかりやすくまとめた資料を作成し、さらに読んだ内容について何が問題か、自分はどう思うかを考える。そういった、自分の頭で考えるトレーニングはきちんとさせてもらっていた、と思う。

そしてこのトレーニングが仕事に役に立たないことはないだろう、とも思う。ずっと捨てられずにいた付箋と書き込み付きの本たちは、今の仕事にもそういえば、と思い当たることに気づかせてくれる。

案件に対し、様々の根拠となる資料を探してまず読む。資料に沿って、仕事の方向性ややっていいこと、悪いことの判断をつけていく。問題が起きれば、過去の例や規則やといった様々なテキストや事例を読んだ上で、問題解決のためにどう解釈して、どう組織の解を導き出すかを考えて行く。これって、ゼミでやっていたことの延長なのだ、と私は思う。与えられる情報や課題や意見に対し、漫然としているのではなく、こうかしら、ああかしら、じゃあどうすればいいのかな…と考えるトレーニングの延長は、社会での仕事にきちんとたどり着いた。

 

特定の仕事やビジネスに活かせる専門性を持たない文系学部は、学ぶ知識そのものは直接的に実用性がないと思われるが、学ぶ過程にはきちんと社会に出る時に困らない経験がセットされていた。

そもそも、学問に経済性や実利性だけで無益か有益かの判断をつけていては、学問そのものが成り立たなくなるだろう。人間には知的好奇心があり、知的好奇心を広げるフィールドが無限にある、その可能性を担保してくれるのが学問と学問の領域の広さである。知的好奇心のフィールドの限界を、ただ実用的で経済的な分野に限定された状況は、そこに生きる人間の、人間としての広がりを限定することにもなってしまうような気がする。

 

ただ、「役に立たない勉強/立つ勉強」という物の見方が圧倒的に優位なのは、大学の勉強と、働く社会との間との橋がうまくかかっていないからではないのだろうか。お互いがお互いの価値に気づき合えないまま、すれ違い続けているのではないか。

 

大学は、専門学校とは違い、学んだ知識を仕事に直結させることを直接の目的とはしていない。しかし不景気でお金にも人員にも余裕のなくなった組織が増えると、就職市場は、「大卒なんて役に立たないからいらない、即戦力をくれ」「大卒でもとりわすぐに戦力になりそうな学生を、育てる余裕なんてない」という意見がはびこる。ちなみにこれはリーマンショックの頃に就職活動をしていた私の体感した空気、高卒で就職した身内の声、また最初の就職先で「新卒なんて要らなかったのに」と目の前で言われまくった経験といったあくまでも主観的な景色であるが。しかし、そうやって余裕がなくなっていく世の中では、役に立つか否か、正確には「すぐに」役に立つか否かをまず問うてしまうのは無理もないのだろう。

 

とはいえ、大学と社会との間にある隔たりに簡単に橋はかからない。誰かがかけてくれる訳じゃない。だから、自分で隔たりの向こうの岸を見に行かなくちゃいけないんだ、と思う。とても難しい時代だな、と思うのは、私がかつてその隔たりの向こうを見ることができず、隔たりを理解するのに8年かかってしまったダメウーマンだからなのだろうか。難しくない人には難しくないことなのだろう。

 

ただ、一つ言えるのは、私は誰がなんと言おうとも、自分の学生時代をとても大事に大事に思っている。社会になじむには時間がかかったが、それでも大学に行ってよかったなと思う。人生にこんなに大事にしたいと思える瞬間を作ってくれた環境、勉強、そして友人たちがいることはとても幸福だ。

自分の過ごした場所が、世間的に評価されにくいことへの落胆と、世間的に評価されなくても自分が価値があると信じたい悔しさとを抱えながら生きてきた。ダンボールに詰めようとしてふと開いた本たちが、後者を肯定してくれて、今日は少し救われたような気分になる日だった。