できるならご機嫌よく

できるなら機嫌よく暮らしたい、なのにできない昭和末期製のガタガタ女が、自己のメンテに努める記録(を予定)

グレーゾーンのつらみ

貧乏というわけではなく、人並みの暮らしはしてたんだけど、どこか余裕のなかった家。
虐待なんてことは天地がひっくり返ってもなくて、親も子も一生懸命だったんだけど、どうも子が正しい自己肯定感を育めずに生きづらさを抱えてしまった環境。
知能も問題ないし日常生活も送れているんだけれど、どこか足りないところがあって損をする性分。


世の中にはそういう、グレーゾーンのつらさ、というものが溢れている気がする。

具体的に、圧倒的に悪いものが何もない。

エラーに名前をつけられない。

けれども、他人との関わりの中で様々な違和感が発生して、しょっちゅう苦しんだり悲しんだりする。


そしてこのグレーゾーンの苦しみを、黒に振るか白に振るかは、ぜんぶ自分にかかっているのだと思う。
黒に振って、他人や環境のせいにしたり、自分は病気だから、オカシイから、と決めつけてしまうのは、つらさを全部自分で背負って、自分で自分を責め続けなくてよくなるぶんには楽かもしれないけれど、つらさが消えるわけではない。


白に振って、いまと明日を、どうつらくなく生きるかを、地道に考えるしかない。

グレーゾーンのつらみは、自己免疫疾患のような原因不明の病に近いのかもしれない。

これ!という異常箇所はないのだが、苦しい症状はたくさん出る。

これ!というものがないから、対処を探すための原因探しや検査にとても時間がかかってしまう。だからたまに、検査の方にのめりこんでしまい、「私は○○だから」「昔こんなことがあったから」と自分を掘り下げていくことに気を取られてしまい、肝心の「どうすれば楽になるか」から離れ、どす黒い自己憐憫や自己卑下に陥ってしまうこともある。

 

 

でも、グレーゾーンのつらみを抱えた自分という人間は、いま、ここにしかいない。

グレーゾーンのつらみは、今日と明日につきまとい続ける。

つらみを抱えた人間が憂うのは、昨日のわたしの失敗であると同時に、明日のわたしの失敗のおそれなのだ。

だから、グレーゾーンな自分なりに工夫して、足りないものを補いながら、生きていくしかない。

 

それが10代後半〜20代にメンヘラと呼ばれ、20代半ばで一旦壊れ、30代を目前にしてようやくそれなりに暮らせるようになったこの頃の私である。

 

 

 

 

満たされている故に欲が腐る

この一年で非常に性格が悪くなった。
常にフラストレーションのガスが充填していて、些細なことでバチンと火花が上がり、機嫌を損ねる状態だ。
自分で自分がいつも情けない。

 

ガスの発生源は、生活が落ち着いて出てきた余裕と、今の部署の仕事だ。

 

いやはや、とても贅沢な暮らしになったと思う。

心身ともに不調がちだった状態から解放され、体調が良く心が穏やかな状態がデフォルトと思えるようになった。

最初の仕事を挫折し辞めた後は、転職希望の業界で必要な試験のために専門学校に通いながら、いつ正規の仕事に戻れるかがわからないので、短期の派遣社員などをして食いつないでいた。仕事と勉強で忙しかったし、短期の仕事の雇用期間が終了した後の、次の仕事がなかなか見つからないときの不安は絶大だった。また、専門学校に通っても希望する転職先に就職できる確率は100%ではないため、安定した生活への見通しが立たない時期があった。

それが今や、正規の仕事に就き、時間給ではなく月給が確実に振込まれ、さらにはボーナスや有給休暇までいただけている。一緒に働く人には、人間不信を催させるような人がおらず、きちんと仕事を教えてくれる親切な人ばかり。そして、働いたお金で好きなものを飲み食いし、友人たちと気楽に遊びに行ける生活。

自分みたいな能力の低い人間が、このような高待遇で、社会でちゃんと働かせていただいているだけでもずいぶんな幸福だ。物凄い贅沢をしているのに、この贅沢を当然と思っているから、さらに上を望むようになっている。

自分の人生に欲が出てきているのだ。満たしたい欲があるから、不満が溜まるのだ。

 

そして不満を生んでいるのが今の部署の仕事だ。

今の部署のは、事業執行の中間処理班みたいなところだ。
中間処理班なので、自分の係以外のところのいろんな事情に動かされ、その中で守らないといけないルールの範囲に収まる適正な書類を、淡々と整えるのが日々の業務だ。

とにかく周りに動かされる係で、周りからはああしてくれ、こうしてくれと言われっぱなし。

案件に応じた処理をする知識や事務処理の正確性を問われつつも、淡々と処理と作業をこなしさえすればいいんだよという、退屈さ。

淡々と処理と作業をこなしさえ、というのは、経験値の浅い下っ端ゆえ、できる仕事に限りがあるということで、致し方ない。

しかし中間処理班の仕事は、何かを生み出すのではなく、成果のための下処理であるから、自分のやったことに対する達成度や面白みが見えにくい。面白みを見出そうと、作業の中に創意工夫の余地を探すも、(でも所詮、ここで頑張ったことは、うちの組織の中でしか通じない)と思うと、何だか虚しくなる。

その横で同僚に「真面目だよねー頑張っても頑張らなくても給料は同じなのに」と言われ、さらに心がカサつく。

 

面白みを探しにくい。頑張っても頑張らなくても同じの下処理。

周りからあれこれ言われる割に、得られる手ごたえのなさに、私は一人で勝手に心を腐らせている。

面白みと、自分のやった仕事が何かになっているという実感を求めるなんて、贅沢病だ。

 

しかし、満ち足りた細胞が死んでしまって、不満を感じる細胞ばかりが異常増殖した心を治すのは簡単ではない。ガンの切除手術みたいに、悪いところだけを切り取るという処置は心にはできない。

不満を感じる細胞を再生産するプログラム、いわば自分の物事の考え方や捉え方を修正しなくてはいけない。

そのためにまずは、おまえは既に十分満たされているんだよ、贅沢をいうなよ、との現状の幸福に気づかせて、満ち足りた細胞の復活と活性化が必要だ。今日のこの記事の執筆はまさにその作業である。昔に比べたら落ち着いた生活してるなぁ、もっと良く暮らしたいという欲が出てきたんだなぁ、満ちてる故の不満なんだなぁ、と気づく作業。

 

とはいえ、これだけだと、「満たされてる状況だというのは理解出来るけれど、 じゃあ既に発生してしまったこのモヤモヤした感情はどこに遣るのよ!すぐに捨てられるんなら、そもそもこんなに悩んでないでな!」と欲張りな私は駄々をこねる。「謝って済むなら警察いらんでー、忘れて済むなら警察いらんでー」と吉本新喜劇あたりに出てきそうなチンピラが頭の中を訪ねてくる。残念ながら我が心のグランド花月には、これを楽しくしばいてくれるすち子もいない。すんまへん当方関西在住。

「あなたは状況としては恵まれているのだから、不満を言ってはなりません。不満を言うべき状況ではありません」と不満を理屈で否定しても、どうやら人間は納得しにくいらしい。(※)だから、気持ちの方も、ケアしてやる必要がある。

さて、モヤモヤとした気持ちの方にフォーカスする。もっと面白く、手ごたえのあることがしたいという欲求をなんとかしてほしいわけだ。でも、それは仕事だけに求めるのは難しいかもしれない。仕事以外の場所に、やる気を持って取り組める、達成したいことを探してみるのも手だ。

休日にできる、社会活動などのプロジェクトに参加してみる?習い事を始める?資格を取る?何か作品を作る?仕事中心の生活は仕方ないけれど、精神的な富までを全部仕事で稼いでくるのは不可能だ。

そう、満たしたい贅沢な欲の存在そのものを肯定した上で、可能な範囲でその贅沢な欲を満たす方法を考える。欲求不満は欲があるから出るわけだが、欲の側をケアしてやるだけで、立っている気が収まるような気になってくる。お前は不満の瘴気をシューシュー出して腐らなくてもいい欲なんだからね、その欲は腐る以外の使い道があるのだよ。

 

こうやって、フラストレーションのガスが過剰発生している我がメンタルという厄介な装置のメンテナンスを試みる。メンタルという装置は、メンテナンスが楽チンな構造の人と、そうでない人がいるのだと思う。私のような後者は、手間をかけて、日々地道に点検と修理を繰り返すしかないのだ。今日はガスだまりの点検でしたとさ。

 

補足

※  「状況」と「感情」を分けて考え対処するというのは、田房永子さんの『キレる私をやめたい』で紹介されていた。個人的にはすごく衝撃だった。

ずっと「満たされてるから」「文句を言うべきじゃないから」という状況によってのみ、自分の感情をコントロールしようとしていたから、私はいつも苦しかった。状況どおりの気持ちになれない自分を嫌悪していた。自分の中に「状況を理解しているマトモな自分」vs「いうことを聞いてくれない困ったちゃんな自分」の二人が対抗している気がしていた。でも本当は、「感情=困ったちゃんのほう」を、出てきたらあかんやろ!引っ込め!抑えつけるのではなく、困ったちゃんが発生したなら仕方ない、出てきたものを否定はしないから、なぜ出てきたのか、どうしたらおとなしくなるのかを、困ったちゃんの方にもヒアリングして、ケアしてやることも必要なのかもしれない。

 

 

序:趣味は自分

なぜ自分はこんな人間なのか?どうすればもっとまともに生きられるのか?

 

そんなことばかりを考えているうちに、週休二日制オフィスワーカーに与えられた貴重な2日の休みはあれよあれよと過ぎてゆき、住んでいる社宅の窓から差し込む日差しは夕暮れの色を帯び始める。

そうやっていつも、自分のことばかりを考える事に時間を費やしてきた。

 

何かの打ち上げの飲み会で、皆が最近台頭した芸人の名を口にするが、誰一人わからない。

 

人々がテレビでアキラの華麗なるお盆さばきや、ブルゾンちえみの女っぷりに頬を緩めている間、

きっと私はずーっとグーグルの検索ボックスに「注意力散漫 原因」「情緒不安定 対処」「熟睡できない」といった類のワードを打ち込んでは嘆息していたのだろう。

それほどに、私は自分について考えてばかりだ。

リビングでテレビを眺めるほどの気軽さと頻度で、私はいつも、なぜ自分は失敗するのかとその解決策を、悶々と悶々と考えている。

これはもはや立派な趣味だな、と思う。

 

じゃあ、趣味なら趣味で、自分について様々に思案したことを、ブログの記事という、簡単な形ではあるがまとまりのある姿にして、残す楽しみを加えてやってもいいのではないかと思い、このブログを作った。

 

人より生きるのは下手くそな方で、たまたま周囲の人間に恵まれていたおかげで、無事定職について、自活して暮らせている。

しかしここまでくるのにも、遠回りはした。

詳しくはくどいので書かないがメンヘラだった。最初に勤めた仕事はうまくやれずに、出社困難になって辞めた。浪費癖がひどく、目下の課題はカードのキャッシング残高数十万の返済計画。悩み過ぎて自己啓発セミナーに通ったこともある。

あの頃に比べたら、とてもまともになったな、よく変われたな、とも思う。その一方で、まだまだ問題も多いオトナもどきだな、とも思う。この前も職場で感情的になってしまったし、疲れてやけ食いやけ酒もしてしまったし。自分の内面の問題、自分の捉え方の問題で、周囲への余裕もなくしている昨今にもウンザリだ。

 

死にたい、こんな自分を生かすのが嫌だと思いながら、その割に長々と居座って、今年はとうとう三十路デビューも控えている。これはもう諦めて、生きやすい人間になる方向にシフトチェンジせざるをえない。

そうでないと、ここまで生かしてくれた人たちの数も生きた年数分だけ沢山になってきて、申し訳が立たないのだ。

だからね、もっと機嫌よく生きましょうよ、もっと楽しく生きましょうよ、それで周りに迷惑かけずに、楽しく優しく生きましょうよ。

そのための術に足りなくて困っている脳みそをクルクルと回転させるのが、私の趣味みたいなものである。